清寿校長時代
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「日本女子体育専門学校 (旧制)」の記事における「清寿校長時代」の解説
生涯独身であったトクヨは、死を目前にして村田美喜子(トクヨの妹・村田とみの次女)を養女に迎え、後の事を託した。美喜子は岩佐高等女学校(現・佼成学園女子中学校・高等学校)を退職して死の床にあるトクヨを看病するとともに、遺言書を口述筆記していた。この中でトクヨは、在校生全員の卒業・就職を待って学校を閉鎖し、資産を整理して政府に献上することを要望した一方で、もしも良い人が現れれば学校を譲っても良いと付記した。トクヨの手筈では美喜子が指揮を執ってこれらを円滑に処理する予定であったが、困った美喜子はトクヨの長弟・二階堂清寿に助けを求め、10月22日に清寿が2代目校長に就任し、美喜子は財団の理事長となった。トクヨの生前から財団役員に名を連ねていたとは言え、清寿は「体育のタの字も知らない」人物だったため、生徒は反発した。しかし太平洋戦争の激化でボイコットには発展せず、清寿は同窓会「松徳会」を組織し、校舎改築期成会の立ち上げ、学校・保護者・松徳会の三位一体を企図した『体専鼎報』の発行、校歌の制定を通して反発を収束させていった。清寿校長はトクヨの不得意なところから手を付けることで、次第に生徒から受け入れられていった。 清寿校長時代は戦争とともにあり、修業年限の繰り上げや早期卒業が実施されたほか、「空襲時における準備訓練講習会」や「明治神宮国民錬成大会」(明治神宮競技大会の後進)への在校生の参加、学徒出陣の見送りなど戦時色が強くなっていった。校庭は麦やサツマイモの畑に転換され、下級生が栽培の任に当たった。上級生は学徒勤労動員で三鷹の日本精密工業などへ勤労奉仕に派遣された。体育を先行する学生だったことから、他の勤労動員学生よりよく働き、気力・体力もあったことから、派遣先の評価は高かったという。学校として思うような授業が行えない一方で、全寮制を生かして毎朝宮城遥拝と諸連絡、毎夜薙刀やダンスの練習が実施できたため、他の学校よりは教育機関としての体を成していた。幸い校舎は空襲の被害を受けずに済んだ。 1949年(昭和24年)、美喜子が30歳の若さで急逝し、トクヨの資産は夫の二階堂直富が継承した。学制改革に伴い、体専は1950年(昭和25年)に日本女子体育短期大学(日女体短)に改組し、学長に清寿、副学長に真寿が就任した。この時、財団も学校法人二階堂学園に改組したが、その手続き過程で体専の校舎がトクヨの個人名義になっており、これを継承した直富に校舎を譲ってもらわねば学校経営が立ち行かなくなるという波乱があった。 日女体短への完全移行は1951年(昭和26年)で、同年に体専としての最後の卒業生26人を世に送り出した。日女体短は、トクヨが体操塾を開塾した4月15日を開校記念日と定めて休講とし、学生一同を連れてトクヨの墓(築地本願寺和田堀廟所)に参る日とした。その後、日女体短は東京女高師時代のトクヨの教え子である戸倉ハルを教授に迎え入れ、戸倉を中心に4年制大学設立を推進し、1965年(昭和40年)に日本女子体育大学(日女体大)を開学した。
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