清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理説とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理説の意味・解説 

清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理(摂政)説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 14:52 UTC 版)

飯豊青皇女」の記事における「清寧天皇仁賢顕宗両天皇の代理摂政)説」の解説

『日本書紀』によれば清寧天皇治世中にすでに億計尊(おけのみこと)と弘計尊(をけのみこと)は発見されており、後継問題解決されていたが、清寧天皇崩御後億計尊弘計尊皇位を相譲したため飯豊青皇女忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや、奈良県葛城市忍海の角刺神社伝承地)で執政し、「忍海飯豊青尊」と称したという。ところが『古事記』によれば清寧天皇崩後に皇嗣なく、飯豊王が執政していたが、やがて(つまりその執政間中に)億計・弘計の兄弟発見され兄弟播磨から迎えたとある。 このように記紀では事実の経緯叙述趣向異なっている。『日本書紀』の説の問題点は、飯豊青皇女執政始めた時は億計尊弘計尊兄弟はもう宮中にいて、この兄弟代理一時的に政務預かったにすぎないばかりか、ちょうど都合よくなぜか1年満たない執政10か月死去して顕宗天皇即位したため、清寧天皇顕宗天皇の間には空位年がないことになっていることである。これは『日本書紀』編年都合上飯豊女王執政期間を切り詰めたではないか疑われる『古事記』場合先々皇位継承がどう考えられていたのかが不明瞭である。男子後継者候補がまったくいなかったとすると、飯豊王の執政問題一時先送りにしかならず、後世女帝比べてもまったく類例のないことになる(それゆえ『日本書紀』正しいとする説もある)。逆に後世女帝あり方から類推すると、男子皇族間の皇位継承争い予兆があってそれを緩和ないし未然に防ぐ意図あったかとも思われる少なくともこの時、後の継体天皇属した応神天皇連なる息長系と、倭彦王属した仲哀天皇連なる家系2つはあり、他にも男系子孫がいた可能性なくはない)。執政期間は不明であるが、もし長期間及んだものであれば中継ぎとはいえ本格的に女帝に近い存在だったといえようまた、億計尊弘計尊兄弟早くから飯豊王の保護下に匿われており、発見半ば出来レースだったという一種折衷案的な説もある(下記若井敏明の説などもその一種)。これに対し物語の構成・展開に信憑性認め発見本当に偶然だったとする説(角林文雄など)もある。

※この「清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理(摂政)説」の解説は、「飯豊青皇女」の解説の一部です。
「清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理(摂政)説」を含む「飯豊青皇女」の記事については、「飯豊青皇女」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理説」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理説のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理説のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの飯豊青皇女 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS