清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理(摂政)説
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「飯豊青皇女」の記事における「清寧天皇・仁賢・顕宗両天皇の代理(摂政)説」の解説
『日本書紀』によれば、清寧天皇の治世中にすでに億計尊(おけのみこと)と弘計尊(をけのみこと)は発見されており、後継問題は解決されていたが、清寧天皇崩御後に億計尊と弘計尊が皇位を相譲したため、飯豊青皇女が忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや、奈良県葛城市忍海の角刺神社が伝承地)で執政し、「忍海飯豊青尊」と称したという。ところが『古事記』によれば、清寧天皇崩後に皇嗣なく、飯豊王が執政していたが、やがて(つまりその執政期間中に)億計・弘計の兄弟が発見され、兄弟を播磨から迎えたとある。 このように記紀では事実の経緯・叙述の趣向が異なっている。『日本書紀』の説の問題点は、飯豊青皇女が執政を始めた時は億計尊・弘計尊の兄弟はもう宮中にいて、この兄弟の代理で一時的に政務を預かったにすぎないばかりか、ちょうど都合よくなぜか1年に満たない執政10か月で死去して顕宗天皇が即位したため、清寧天皇と顕宗天皇の間には空位年がないことになっていることである。これは『日本書紀』が編年の都合上、飯豊女王の執政期間を切り詰めたのではないかと疑われる。『古事記』の場合、先々の皇位継承がどう考えられていたのかが不明瞭である。男子後継者候補がまったくいなかったとすると、飯豊王の執政は問題の一時先送りにしかならず、後世の女帝と比べてもまったく類例のないことになる(それゆえ『日本書紀』を正しいとする説もある)。逆に、後世の女帝のあり方から類推すると、男子皇族間の皇位継承争いの予兆があってそれを緩和ないし未然に防ぐ意図があったかとも思われる(少なくともこの時、後の継体天皇が属した応神天皇に連なる息長系と、倭彦王が属した仲哀天皇に連なる家系の2つはあり、他にも男系子孫がいた可能性もなくはない)。執政期間は不明であるが、もし長期間に及んだものであれば、中継ぎとはいえ本格的に女帝に近い存在だったといえよう。 また、億計尊・弘計尊の兄弟は早くから飯豊王の保護下に匿われており、発見は半ば出来レースだったという一種の折衷案的な説もある(下記の若井敏明の説などもその一種)。これに対し、物語の構成・展開に信憑性を認め、発見は本当に偶然だったとする説(角林文雄など)もある。
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