洪水との戦いと独自の文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:39 UTC 版)
「川島町 (岐阜県)」の記事における「洪水との戦いと独自の文化」の解説
安土桃山時代の1585年木曽川の大洪水により、この地域に存在した幾つかの村(水田村、ここ島など)は水没。さらに十数個の中洲の島になり、この時から洪水との戦いが始まる。尾張国側には御囲堤が築かれ、美濃国側の堤防は、高さは尾張国より3尺低いとはいえ堤防が築かれた。しかし、この地域の堤防は築くことが制限され、1 - 3尺程度の堤防しか無かった。事実江戸時代には洪水で幾つかの島が消えている。 洪水多発の為、土地は砂地となり、田は殆ど出来なかった(現在も殆ど無い)。この為、江戸時代は木曽川での漁業、養蚕、木曽川の川石(丸石という)の石材業が盛んとなった。明治時代には、織物、撚糸業が盛んとなった。 この地域の古い家では、土地を南北に細長くしている事が多い。これは木曽川が東西に流れており、洪水で土地が川になっても、少しでも土地が残るようにしたという、先人の知恵である。又、屋敷は高さ1尺 - 8尺の石垣(ごんぼ積みという)の上に立てられ、1階が住居、2階が蚕の飼育部屋兼洪水時避難場所という造りが多かった。今も各所に見られる。 明治時代 - 大正時代に河川改修が行われ、川島村で幾筋となっていた木曽川は、3つの筋にまとめられることになった。笠田が1つの島として残し、他の集落を1つの島(川島本島)にまとめ、2つの島となった。木曽川は本流、北派川、南派川の3つに分流されたが、本流を本島と笠田島の間とする為に、松原島の分島であった三斗山島を削り取る必要が出てきた。結果、三斗山島の島民は全員移住という事態が生まれた。 中州の島という事もあり、外部の交通手段は渡船のみであった。これは、1922年に愛知県葉栗郡浅井町(現・一宮市)との間に初代の河田橋(木製)が架橋されるまで続いた。自動車が村内に入るようになったのは1931年に河田橋がかけなおされた以降である。岐阜県側への直接の交通手段は、実質、1962年の川島大橋の完成まで渡船であった。川島大橋完成後も岐阜県側の唯一の橋(新境川のもぐり橋)は大雨などによる増水で度々通行止となり、これの解消は各務原市に編入された後、各務原大橋の完成まで待つ事となった。
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