洪武帝の招諭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「洪武帝の招諭」の解説
1372年、明の洪武帝は中山王の察度に使者楊載を送り、入貢を要請する。察度は洪武帝の招諭に応じ、弟の泰期を使節として派遣する。こうして琉球は中国への朝貢を開始し、約500年間継続することになる。当時、琉球は三山時代であり、山南、中山、山北の三国が沖縄島内に分立していた。中山王察度の朝貢後、1380年に山南王の承察度が明に朝貢し、1383年には山北王の怕尼芝が入貢する。1382年には明使の路謙が琉球を訪れた。路謙から琉球内で三国が相争っていることが洪武帝に報告され、翌1383年に改めて派遣された明使の梁民と路謙は、洪武帝から三山各国に対し停戦を求める命令を下した。この1382年と1383年の明使派遣以後、琉球からの朝貢頻度は激増する。そして1385年には中山、山南に明の大型船が下賜される。 1404年、中山王武寧は父、察度の死去とを知らせるとともに自らの冊封を求める使者を明に送った。永楽帝は武寧の求めに応じ、武寧の冊封使を琉球に派遣する。同年、山南王の汪応祖の冊封も行われた。その後1866年の尚泰の冊封に至るまで、25回に渡って冊封使が琉球に派遣され冊封儀式を行うことになる。
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