沖縄統治体制の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:35 UTC 版)
「アメリカ合衆国による沖縄統治」の記事における「沖縄統治体制の確立」の解説
1946年(昭和21年)1月29日、連合国軍総司令部 (GHQ) はSCAPIN - 677を発令して日本本土と北緯30度以南の南西諸島の行政分離を行うと発表し、1948年(昭和23年)10月にはそれまで沖縄の長期保有について反対意見を持っていた米国務省も沖縄の保有を認めたため、「米国の対日政策に関する勧告に対する国家安全保障会議の諸勧告 (NSC/2, 3)」により米軍の沖縄恒久保持、基地の開発の方針がトルーマン大統領により承認された。1951年(昭和26年)9月8日に調印され、翌1952年(昭和27年)4月28日に発効された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第3条には、アメリカ合衆国から国際連合への提案があった場合、北緯29度線以南の南西諸島をアメリカ合衆国の信託統治下に置くことに日本国が同意することが規定されたが、その後国連への提案はなされなかったため、日本は奄美諸島および琉球列島に対する主権(潜在的主権)を保持し続けることができた。 当初、1950年(昭和25年)11月4日に奄美群島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島を四分割しそれぞれ群島政府を設置した。しかし同年9月に住民により選出された知事と議員らが日本復帰を公言した。その結果に不快感を示した軍政府は、翌年の1951年(昭和26年)4月1日に琉球臨時中央政府を設立し、群島政府の権限は大幅に削減され、そして1952年(昭和27年)4月1日に群島政府が廃止され琉球政府が創設された。また軍政府は1950年(昭和25年)12月15日に琉球列島米国民政府(USCAR:ユースカー、以下民政府と略す)と改称した。琉球政府は、立法院と裁判所と共に三権の一つとなったが、琉球政府により制定された法令の執行の停止、琉球政府の長である行政主席は民政府により任命されるなど常に民政府は絶対的な権力を持っていた。 なお、トカラ列島は1952年(昭和27年)2月10日、奄美群島は1953年(昭和28年)12月25日に日本に返還された。奄美群島返還時、朝鮮戦争終結交渉から帰途日本に立ち寄ったダレス国務長官は「少しはやいクリスマスプレゼント」と称し奄美群島返還を発表した。この発表を受けダレスが羽田空港から出発しようとしたとき、群集から感謝の声が上がり、また、奄美群島の再統合に関する法案が12月24日に衆参両院を通過し、その際参議院が「感謝」の、衆議院が「祝辞」の決議を為し、時の総理吉田茂が「クリスマスプレゼントありがとう」との私信をダレスに送った。しかし、奄美群島から沖縄本島へ労働に来ていた人々は「日本人」と言うこととなり、パスポートの所持が必要となった上、公職からの追放が行われるなど、いくつかの副作用がもたらされた。
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