江上地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:51 UTC 版)
廃藩置県後に何度かの変遷を経て、1889年(明治22年)町村制施行により地方自治体として江上村と崎針尾村がそれぞれ単独村制にて発足し、1955年(昭和30年)に佐世保市へ編入されるまで2ヶ村が並立した。明治初期に針尾出身の儒学者で、平戸や京都で藩主に仕えた楠本端山・楠本碩水兄弟が帰郷し、私塾鳳鳴書院を開いた。義務教育が普及するまで、旧松浦藩の儒学者・教育者を育成した。 佐世保軍港の拡張に合わせて、佐世保湾に面する針尾島西岸には軍事施設が設置されるようになった。針尾送信所が最大の施設である。一方で、戦艦・航空母艦の停泊地として恵比寿湾が指定され、安久ノ浦・牛ノ浦に弾薬庫が設置されるなど、地元住民の活動にも制限が加わるようになる。太平洋戦争が激化すると、赤子新田に針尾海兵団が新設され、海軍兵学校針尾分校も併設された。 敗戦と同時に外地からの引き揚げ事業が始まると、恵比寿湾奥の浦頭港が上陸港に指定された。引揚者は浦頭港から上陸し、消毒処理後に徒歩または牛車・馬車によって海兵団を転用した引揚援護局に移動し、仮住まいした。現在、浦頭港を見下ろす丘に浦頭引揚記念平和公園が造成され、公園と資料館が設置されている。また、援護局隣接地には、帰郷を目前に無念の死を遂げた無縁仏を供養するために釜墓地が開かれている。 引揚局が1950年(昭和25年)5月15日をもって閉鎖されたのち、跡地は陸上自衛隊針尾駐屯地、長崎県造成による針尾工業団地を経て現在のハウステンボスになっている。 1955年(昭和30年)10月18日に西海橋の開通式が挙行され、針尾島は行き止まりの辺境から佐世保〜長崎を短絡する通過地へと変貌する。当初こそ高い通行料が嫌われて利用者は少なかったが、やがて需要が伸びて大動脈へと成長していった。1958年(昭和33年)には西海橋直下の海岸に西海橋遊園地が開かれ、うず潮と西海橋を見物する観光客は急増した。 昭和50年代に大きな動きはなく、徐々に針尾地区の過疎化が進行する一方、江上地区の都市化が進行している。1988年(昭和63年)には、針尾地区の西海橋遊園地が閉園を迎える一方、江上地区ではハウステンボス安全祈願祭・江上大島橋開通式・サンレモリハビリ病院着工と地場新興プロジェクトが連続している。有人島ながら橋がなかった江上大島と針尾島の往復には、伝統的な手繰船が用いられていた。 平成に入り、ハウステンボスが1992年(平成4年)に開業した。2006年(平成18年)3月5日には新西海橋が西海パールライン有料道路の一部として開通し、長崎県の南北を結ぶ新しいルートが針尾島に作られることになった。
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