江上・八院の戦いとは? わかりやすく解説

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江上・八院の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 08:54 UTC 版)

小野鎮幸」の記事における「江上・八院の戦い」の解説

慶長5年1600年)、関ヶ原の戦いが起こると石田三成西軍への参加主張し大津城攻略した。ところが、西軍関ヶ原にて敗れると、加藤清正鍋島直茂黒田孝高(如)が柳川攻め形勢となった同年10月14日鍋島32,000(『葉隠聞書第六によると12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10,000余としている)は二手分かれて佐賀進発すると、立花勢も迎撃のために八院方面出陣した。しかし、東軍徳川家康への恭順を示すため主君宗茂は城に残り立花13,000のうち出陣したのは家老の鎮幸を総大将とする約3,000一説2,000、うち鎮幸の直卒す中軍は1,000余騎)であった鍋島軍は、10月16日には筑後川渡河して立花方の海津城落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000立花成家200鉄砲奇襲を受け20余人討たれたが城島城攻略、翌10月20日鍋島軍の先鋒軍3~5,000と鎮幸率い立花軍1,300激突した(江上・八院の戦い)。 立花先鋒安東範久(五郎右衛門)、石松政之(安兵衛)らは鎮幸の与力・松隈小源の軍令誤伝のせいで、軍法破って独断開戦し次々と鍋島勢の軍陣の中へ突入し先鋒第三隊の立花統次三太夫森下三男立花統春養子)は鍋島軍の陣中深くまで進んで奮戦した鍋島勢の先鋒鍋島茂忠は本陣五反田撤退したといわれている。しかし、鍋島方は、立花勢を包み込んで包囲殲滅する作戦当初から立てており、立花方は一騎駆け敵軍突撃した立花統次戦死始め先鋒安東範久、石松政之もたちまち反撃受けた救援出陣第二陣立花鎮実(戸次右衛門大夫戸次氏一族)と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎17歳)や新田鎮実(平右衛門掃部助)は横合から果敢に攻めかけたが、これも後を断たれて共に戦死した後陣矢島重成勘兵衛、剛庵、宗茂側室八千子の弟)と千手(六之允、筑紫広門与力)は戦を躊躇し接戦ていないため、馬廻衆安東幸貞(津之助、安東範久の養子)、第三陣の若武者十時惟久(新五郎16歳)、先鋒安東範久、石松政之も次々と戦死した総大将小野鎮幸本陣前の堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回り14、5人になるまで討ち取られた。小野自身銃創矢傷負い討死寸前となったが、水田方面黒田如水軍を偵察していた立花成家(吉右衛門薦野増時嫡男)が別動隊300率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した

※この「江上・八院の戦い」の解説は、「小野鎮幸」の解説の一部です。
「江上・八院の戦い」を含む「小野鎮幸」の記事については、「小野鎮幸」の概要を参照ください。

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