民進党・陳水扁政権
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民進党は、党綱領(台独党綱(中国語版))で「台湾共和国」の設立を目標と掲げていた。しかし、2000年総統選挙での政権獲得を目指すため、中華民国の存在を承認し、台湾独立を放棄もしくは棚上げすることで主要派閥が合意した。しかし、党内には急進派の「台湾独立建国連盟」に属する者や党外の協力者や支持者にも配慮する必要があった。そのため党綱領と並ぶ基本文書として、台湾前途決議文を1999年5月8日に高雄で開催された全国党員大会において採択し、党綱領の台湾独立を棚上げすることが規定された。 四不一没有 成立当初の陳水扁政権は、李登輝総統よりも保守的な方針を「四不一没有」で示した。そのため李登輝総統からは、自らの進めてきた中華民国の台湾化に逆行すると批判された。陳水扁は、1990年代から旧東西ドイツをモデルとした中間協定の締結を主張し、1999年には当時の林義雄民進党主席と共に中国とのFTA締結を主張していた。2000年大晦日(2001年元旦未明)には統合論を提示し、まずFTAなど経済統合から始め、長期的には政治統合や文化の統合に至ると述べた。これは、「特殊な国と国の関係」論において、李登輝前総統が無視した「特殊な関係」の実現を目指したものであった。背景には、米国が中華人民共和国との交渉を仲介するとの期待や、積極的に中華人民共和国と交渉し、条約を締結することで、中華民国の国家としての地位を確定させるという目論見(「強本西進」論)があった。 しかし、中華人民共和国は「四不一没有」に対して「行動を見守る」と述べるにとどまった。FTA締結に対して一部官僚が反応したものの、「強本西進」の目的に気づき、その後反応を見せなくなった(2003年に香港とCEPAを締結後、台湾にもCEPAを提案した)。その一方で、中華民国を承認する国に、承認切り替えを迫り続けた。 一辺一国 中華人民共和国の態度が軟化しないため、2002年、陳水扁政権は「強本西進」から転換を始める。また、2001年立法院選挙で過半数を逃し、政権運営上、李登輝総統を精神的首領とする台湾団結連盟の協力が必要であったことも原因の一つに数えられる。 陳水扁総統は2002年8月の民進党全国党員大会で党主席に就任した。しかし、その当日、中華人民共和国は中華民国を承認していたナウルとの国交樹立を発表した。台湾では中国の「引き出物」=嫌がらせと受け止められ、面子を潰された陳水扁総統は、同月、世界台湾同郷会への挨拶で「中国と台湾は、一辺一国(別々の国)である」と述べた。中国はこれに反発。しかし、実際には陳水扁政権による関係改善に向けた提案をあしらった結果であった。こうして台湾政府が中国との関係改善に積極的で、具体的な提案を行った時期は終了した。ただし、その後も陳水扁総統は、中国に善意があれば、いつでも関係改善が可能との立場を崩していない。中間協定や統合についても、中国が中華民国を承認すれば協議に応じる、と機会がある毎に述べている。
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