毎日放送時代
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もともと吉本新喜劇の舞台中継やそれをベースにしたコメディは、毎日放送が先行した企画だった。 朝日放送との合弁会社大阪テレビ放送(OTV)の絡みでテレビ単独では在阪最後発となった毎日放送は、当時、大阪・堂島の毎日大阪会館に置かれた本社にスタジオが3つしかなく局内製作に限界があった(千里丘放送センターの建設・運用開始は後の話)。このため、毎日放送は地場で劇場を所有する興行主と業務提携を交わし、その劇場に放送機材を設置して公開放送を行うことにした。吉本興業との提携では当時改装中だったうめだ花月が機材設置場所に選ばれ、吉本もテレビ時代に対応した新コンテンツとして新喜劇の前身「吉本ヴァラエティ」を立ち上げることにした。1959年(昭和34年)3月1日の毎日放送開局と同時にうめだ花月は開場し、毎日放送は当日、吉本ヴァラエティ旗揚げ公演『アチャコの迷月赤城山』を生中継。かくして新喜劇の不定期放送が始まった。 これに対し大阪テレビ放送改め朝日放送は既に『びっくり捕物帖』『ダイラケ二等兵』である程度の視聴者を固めていて、1961年(昭和36年)にスタートした『スチャラカ社員』にも中田ダイマル・ラケットを出演させるが、翌1962年(昭和37年)12月、毎日放送は日曜12時枠で吉本新喜劇のレギュラー放送(『サモン日曜お笑い劇場』)を始める。当時、毎日放送のキー局だったNETテレビは『日曜お笑い劇場』を一度はネットするが、関東では受け入れられず、1963年(昭和38年)6月、水曜日昼枠で『テレビ寄席』を立ち上げる。毎日放送も『テレビ寄席』をネット受けするが低迷。関東での好評によって『テレビ寄席』が日曜正午へ移動した同年10月の改編で、毎日放送は『テレビ寄席』を、NETテレビも『日曜お笑い劇場』の放送を互いに打ち切りあった。 後に毎日放送社長になる斎藤守慶が中心となっていた同局テレビ営業局は、スポンサーの大正製薬が日曜12時台のNET系全国ネット提供を『テレビ寄席』に一本化する方針だったにもかかわらず、『テレビ寄席』と『日曜お笑い劇場』が同じ放送時間になったという理由で引き続き大正に『お笑い劇場』のスポンサーとして残るように依頼する(事実上の企画ネット番組)。大正の社長だった上原正吉は最終的に毎日放送社長高橋信三の説得の前に折れ、出稿継続を決める。 一方、朝日放送は毎日放送とNETテレビの対立を横目に、『スチャラカ』で日曜日12時枠をリードしていくが徐々に『日曜お笑い劇場』との差は縮小し1965年(昭和40年)頃には逆転。時間帯首位を『日曜お笑い劇場』に明け渡した。 1971年(昭和46年)、後に桂三枝(現・六代目桂文枝)の代名詞となる『新婚さんいらっしゃい!』をこの時間枠で立ち上げ、『ダイラケ』以来日曜12時台で14年続いたコメディ番組の歴史が一旦途切れる。当時はTBS系全国ネット枠だったこともあって『新婚さん』はTBSや地方局ではそれなりの視聴率を得ていたが、地元関西ではまだ『日曜お笑い劇場』のほうが強く、伸び悩んでいた。
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