毎日放送時代とは? わかりやすく解説

毎日放送時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 14:02 UTC 版)

日曜笑劇場」の記事における「毎日放送時代」の解説

もともと吉本新喜劇舞台中継やそれをベースにしたコメディは、毎日放送先行した企画だった。 朝日放送との合弁会社大阪テレビ放送OTV)の絡みテレビ単独では在阪最後となった毎日放送は、当時大阪堂島毎日大阪会館置かれ本社スタジオ3つしかなく局内製作に限界があった(千里丘放送センター建設運用開始は後の話)。このため毎日放送地場劇場所有する興行主業務提携交わし、その劇場放送機材設置して公開放送を行うことにした。吉本興業との提携では当時改装中だったうめだ花月機材設置場所選ばれ吉本テレビ時代対応した新コンテンツとして新喜劇前身吉本ヴァラエティ」を立ち上げることにした。1959年昭和34年3月1日毎日放送開局同時にうめだ花月開場し毎日放送当日吉本ヴァラエティ旗揚げ公演アチャコの迷月赤城山』を生中継かくして新喜劇不定期放送始まった。 これに対し大阪テレビ放送改め朝日放送は既に『びっくり捕物帖』『ダイラケ二等兵』である程度視聴者固めていて、1961年昭和36年)にスタートしたスチャラカ社員』にも中田ダイマル・ラケット出演させるが、翌1962年昭和37年12月毎日放送日曜12時吉本新喜劇レギュラー放送(『サモン日曜お笑い劇場』)を始める。当時毎日放送キー局だったNETテレビは『日曜お笑い劇場』を一度ネットするが、関東では受け入れられず、1963年昭和38年6月水曜日昼枠で『テレビ寄席』を立ち上げる毎日放送も『テレビ寄席』をネット受けするが低迷関東での好評によって『テレビ寄席』が日曜正午移動した同年10月改編で、毎日放送は『テレビ寄席』を、NETテレビも『日曜お笑い劇場』の放送互いに打ち切りあった。 後に毎日放送社長になる斎藤守慶中心となっていた同局テレビ営業局は、スポンサー大正製薬日曜12時台NET系全国ネット提供を『テレビ寄席』に一本化する方針だったにもかかわらず、『テレビ寄席』と『日曜お笑い劇場』が同じ放送時間になったという理由引き続き大正に『お笑い劇場』のスポンサーとして残るように依頼する事実上企画ネット番組)。大正社長だった上原正吉最終的に毎日放送社長高橋信三説得前に折れ出稿継続決める。 一方朝日放送毎日放送NETテレビ対立横目に、『スチャラカ』で日曜日12時リードしていくが徐々に日曜お笑い劇場』との差は縮小し1965年昭和40年)頃には逆転時間帯首位を『日曜お笑い劇場』に明け渡した1971年昭和46年)、後に桂三枝(現・六代目桂文枝)の代名詞となる『新婚さんいらっしゃい!』をこの時間枠立ち上げ、『ダイラケ以来日曜12時台14年続いたコメディ番組の歴史が一旦途切れる当時TBS系全国ネット枠だったこともあって『新婚さん』はTBS地方局ではそれなりの視聴率得ていたが、地元関西ではまだ『日曜お笑い劇場』のほうが強く伸び悩んでいた。

※この「毎日放送時代」の解説は、「日曜笑劇場」の解説の一部です。
「毎日放送時代」を含む「日曜笑劇場」の記事については、「日曜笑劇場」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「毎日放送時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「毎日放送時代」の関連用語

毎日放送時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



毎日放送時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日曜笑劇場 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS