様式の源流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:00 UTC 版)
「法隆寺金堂釈迦三尊像」の記事における「様式の源流」の解説
本三尊像と共通の様式をもつ仏像を「止利式」仏像と称する。止利式の具体的作例としては、法隆寺大宝蔵院にある戊子年(628年)銘の銅造釈迦如来及び脇侍像、同じく大宝蔵院の銅造菩薩立像(胸前に両手で宝珠を持つ)、法隆寺献納宝物四十八体仏中の銅造如来坐像(145号像)などがある。いずれも、面長の頭部、古拙の微笑を浮かべる表情、正面観照性・左右相称性の強い造形、図式的に整えられた衣文などに特色がある。こうした造形は北魏の仏像彫刻、なかでも龍門石窟賓陽中洞本尊の如来像(北魏)に似ていることが早くから指摘されていた。このため、止利式仏像の源流は中国北朝の北魏の仏像にあるという説が明治時代、平子鐸嶺らによって唱えられ、以後この説が長らく主流となっていた。建築史家の関野貞は、百済の文化がもっぱら南朝の梁の影響下にあることから、止利式仏像の起源は南朝にあるという説を1934年に発表した。しかし、南朝の仏像の遺品自体が少ないこともあって南朝起源説はかえりみられず、その後も日本の飛鳥仏の様式は、北魏の遺品との関連で論じられてきた。 こうした中、吉村怜は1983年に止利式仏像南朝起源論を発表した。吉村の論の骨子は、中国南北朝時代の南朝は北朝よりも文化的に優位にあり、北朝の仏像様式は南朝のそれを忠実に反映したものであったこと、百済と北魏の交渉は確認できないこと等である。 なお、法隆寺釈迦三尊像は、大衣の着装法に北魏仏とは異なる独特のものがあることが指摘されている。通常、大衣を通肩(両肩を覆う)に着装する場合、まず左肩と左胸を覆い、背中を経て右肩と右胸を覆い、さらに腹前を覆う。北魏仏の場合、大衣の端は腹前から左前膊(左腕の肘から先)に掛けて終わっている。ところが、法隆寺釈迦三尊像の場合、衣端は左肩に掛けているように見えるが、左前膊にも衣端のような線が見え、1枚の大衣に2枚の衣端があることになってしまう。これを指摘したのは水野敬三郎(1974年の論文)であった。水野は、止利が本三尊像を制作した当時の日本で見られた北魏式の仏像は浮彫像であって、背面の状態が明らかでないため、衣端を左肩に回す方法と左前膊に掛ける北魏式との折衷的な形式になったのであろうとした。これに対し大西修也は、止利が大衣の着装法を知らなかったはずはないとし、上述のような折衷的な着装法は、造形上、重苦しくならないための工夫であろうとした。この点については、そもそも釈迦像が2枚の大衣を着ている可能性を指摘する意見もある。
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