柔道との対戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 20:23 UTC 版)
アド・サンテルは、日本人の柔道家で黒帯五段の実力を持つ伊藤徳五郎と対戦するが、これは現代武道歴史上最初期の異種試合の1つとして知られる。サンテルは柔術のスペシャリストである野口潜龍軒との対戦経験があり、柔術に対する知識があったので、柔道のルールの下で闘い、テイクダウンを奪った上で伊藤を破り、柔道の世界王者を宣言した。なお、伊藤徳五郎は数ヶ月後の1916年6月10日、絞め殺しでサンテルを破りリベンジし、サンテルを破った最初で最後の柔道家となった 。 1914年10月、サンテルはシアトルにやって来て、過去に引き分けていた柔道家の三宅タローに挑戦した。サンテルは強力なハーフネルソンスラムを三宅に決め勝利し、三宅はそのダメージで試合後30分間めまいが続いたという。柔道の創始者嘉納治五郎はこれを新たな屈辱と見なし、敗北の復讐のために五段の黒帯坂井大輔を送りこんだが、サンテルはアームロックを2度極めて再び坂井を破った。海外において柔術家・柔道家を下しその知識・技術も身に付けたサンテルは「ワールド・ジュードー・チャンピオン」の肩書きを自称する。 この試合以降、講道館は挑戦者を派遣してこず、サンテルは講道館に挑戦するために日本に行くこと決め、同じくレスラーである弟子のヘンリー・ウェーバーと柔道の有段者でプロレスラーに転向した日本人レスラーのマティ・マツダとチームを結成した 。アメリカでアドのチームと講道館との一連の試合を主催するさいに手伝ってくれた講道館のメンバーである岡部平太の尽力で日本渡航が可能となる。来日したアドに対し、当初は対戦相手に徳三宝や石田信三などの名前が挙がるなど対戦を黙認黙許する姿勢であった嘉納だが、他流試合が興行的にただ利用されるばかりなことを自身の経験上危惧していた岡部平太による敢然とした強い反対と幹部達による説得を最終的に受けて対戦を拒否する形となる。対戦した門下生は破門すると厳しい対応をとったが、系列の弘誠館が破門覚悟で受けてたち、6人の柔道家が挑戦の名乗りを上げ、庄司彦男、永田礼次郎、増田宗太郎、清水一の4名の柔道家との対戦が決定。両者合意の上、柔道着の着用とあらゆる投げ技や関節技を含む寝技を認める中立的なルールの下で試合が行われることとなった。試合は東京九段の靖国神社相撲場で1921年3月5日と6日の両日に行われ、1万人の観衆の前で、初日にサンテルはTKOで永田を破り、翌日の庄司との対戦では60分間時間切れ引き分けとなったものの、マット上でダメージを受け倒れている庄司を会場からサンテル自身が担いで退場する等、その強さを観客に見せつけた。その後、サンテルはウェーバーを破った清水一と対戦し勝利し、弟子の雪辱を果たしている。なお対戦を受けた庄司ら関係者7名はその後の処分として段位剥奪の処置を受けたが、約2年後に処分の取り消しを受けて講道館に復帰している。
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