架け替えに至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:09 UTC 版)
信濃川は低湿な新潟平野に大きな水害をもたらすことから、江戸時代から幾度も分水路の開削が計画されていたが、1896年(明治29年)の大水害をきっかけに実現される運びとなった。工事は、内務省直轄の国家事業として1909年(明治42年)に着手され、1922年(大正11年)8月に大河津分水が完成した。そして通水が開始されると、分水から下流の信濃川の水量が著しく減少し、新潟市内の川幅は約770 mから、3分の1の約270 mにまで縮小された。 一方、明治時代末期から大正時代にかけて、全国の都市では路面電車やバスの運行が相次いで開始され、さらにトラックによる貨物輸送も始まるなど、日本国内の各地では自動車交通が次第に盛んになっていった。 新潟市でも、1913年(大正2年)6月8日に新潟駅と白山駅との間で、市内初のバス事業が開始され、さらに1922年(大正11年)7月12日には新潟駅と白山神社との間で、初の本格的な路線バスの営業が開始された。当時の車体は赤い塗装であったことから、市民の間では「赤バス」の通称で親しまれるようになった。このように新潟市でも大正期から自動車の通行量が次第に増え、既に老朽化が進んでいた2代目橋梁は、赤バスなどの自動車が通行するたび、橋の敷板がバタバタと音を立てて跳ね上がることから「バッタン橋」とも揶揄され、また損傷も増加し、たびたび修繕を余儀なくされていた。 こうした中、内務省の都市計画新潟地方委員会が1925年(大正14年)に策定した「新潟都市計画」には、萬代橋を架け替え、車道の中央部に路面電車を通す計画が盛り込まれ、信濃川の幅員縮小を機に橋長を短縮し、路面電車の軌道敷設と自動車交通の双方に対応できる永久橋梁への架け替えが行われることになった。 当時、日本の架橋技術は大幅に進歩していたとはいえ、その建設費は240万円に上った。これは当時の国の年間道路予算の約350万円に比して約7割、新潟県の年間予算1,139万円に比しても約2割にも上る巨額な規模であった。その費用の一部は、縮小した信濃川の流路跡を埋め立てた土地の売却代金で補い、他は県債や国の補助金などを財源とした。流路跡の埋め立ては戦後に跨り約25年間にわたって進められ、市街地拡大や港湾施設の拡充に役立てられた。
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