松山市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:54 UTC 版)
愛媛県知事選挙への出馬を表明して辞職した中村時広松山市長の後継指名を受けて11月の松山市長選挙に出馬、自由民主党推薦の新人候補など4新人を破り初当選。 市長就任後は公民館区域ごとにタウンミーティングを開催。山林の境界線を画定する地籍調査事業、島しょ部居住者が通院のために航路を利用する際の運賃助成事業などタウンミーティングで寄せられた市民の提案などをもとにした計19事業、4億4900万円を2013年度当初予算案に計上する取り組みを実施した。 2014年の市長選では自民党・公明党の松山支部連合会が推薦する新人候補と日本共産党推薦の新人候補を破り、再選。市長選挙では中村時広愛媛県知事や市政与党の松山維新の会などの市議、自民党県連幹事長、連合愛媛などの後押しを受けた。 2018年6月28日に都市機能の最適な集約を進める自治体で組織された「コンパクトなまちづくり推進協議会」の会長に就任した。 2018年11月に行われた市長選挙では前回の選挙で対立した自由民主党・公明党の市議らの応援を得て、共産党推薦の新人候補を破り3選を果たした。
※この「松山市長」の解説は、「野志克仁」の解説の一部です。
「松山市長」を含む「野志克仁」の記事については、「野志克仁」の概要を参照ください。
松山市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 19:39 UTC 版)
77歳の松山市長黒田政一は、高齢多選批判を受けていたにもかかわらず1963年松山市長選に立候補した。これに対して宇都宮は「市政刷新」を掲げて選挙戦に立候補した。井関の社員や労働組合の支援を受けた宇都宮は市内各地で浸透を図り、黒田の地元(三津)以外で得票を上回って松山市長に初当選した。 当選した宇都宮は黒田の工業化路線を維持し、市民会館を松山城の堀の内に建設した。しかし、この市民会館建設を巡る汚職で松山市議会議員7人が逮捕された。市民の批判によって、1966年に市議会は自主解散に追い込まれた。宇都宮が再選を目指した1967年の松山市長選では黒田が再び立候補し、現・旧市長による事実上の一騎討ちとなった。しかし、今回も組織票を固めた宇都宮が勝利した。なお、この時の投票率は前回よりも約23ポイント低い61.9%であり、これ以降松山市長選における低投票率は定着していった。 愛媛県知事久松定武の後任を決める1971年の愛媛県知事選では、保守系の白石春樹と革新系の湯山勇で争われたが、松山では湯山が、当選した白石よりも2万5000票以上得票していた。このことから、1971年の松山市長選に革新統一候補として愛媛県教職員組合の幹部・桧垣俊蔵が擁立された。しかし、宇都宮は現職の強みを生かして大差で3選を果たした。 宇都宮が市長を務めた3期12年間の間、松山は大きく発展し、人口では香川県高松市を抜いて四国最大の都市に成長した。製造品出荷額は新居浜市と肩を並べるまでに高まった。また、国道11号・国道33号・国道56号の各バイパス道路、松山環状線の実現に向けて動き出し、松山の骨格を固めた。1967年には瀬戸内海を越えて往来する人々に対応するため、松山観光港を建設した。また、人口増加による水不足を解消するために石手川ダムを建設した。 1975年、高齢となった宇都宮は任期満了で引退した。
※この「松山市長」の解説は、「宇都宮孝平」の解説の一部です。
「松山市長」を含む「宇都宮孝平」の記事については、「宇都宮孝平」の概要を参照ください。
- 松山市長のページへのリンク