杉原千畝の発給ビザ
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「外務省ユダヤ難民取り扱い規則」の記事における「杉原千畝の発給ビザ」の解説
大量のユダヤ難民にビザを発給したことで知られる外交官杉原千畝は、訓令が出された1938年当時、フィンランドの在ヘルシンキ公使館に勤務していた。その後、リトアニア在カウナス領事館に副領事として務めていた杉原は1940年7月から9月にかけて、困難な状況の中、外務省当局と駆け引きをし、記録上2,000件以上、うち1,500件余りがユダヤ系(1941年2月の杉原発電報より)の通過ビザ(通過査証)を発給、およそ6,000人の難民を救った(杉原発給ビザは二千百数十件だが一枚一家族で六千人以上が救われたと推定されている)。 杉原の行為に関しては66年後に日本政府が示した見解が小泉純一郎総理大臣の答弁書(2006年3月24日、内閣衆質164第155号)にある。それによると、 三及び四について 外務省において保管されている文書により確認できる範囲では、昭和十五年当時、「ユダヤ人に対しては一般の外国人入国取締規則の範囲内において公正に処置する」こととされており、また、杉原副領事に対して、「通過査証は、行き先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」との外務本省からの指示があった。杉原副領事は、この指示に係る要件を満たしていない者に対しても通過査証を発給したと承知している。 十七について 外務省として、杉原副領事は、勇気ある人道的行為を行ったと認識している。 — 衆議院議員鈴木宗男君提出杉原千畝元在カウナス日本国領事代理に関する質問に対する答弁書 これらの文言が盛り込まれ、その翌々月、外務省ウェブサイトにて以下のように公開された。 1. 外務省において保管されている文書により確認できる範囲では、昭和15年(1940年)当時、「ユダヤ人に対しては一般の外国人入国取締規則の範囲内において公正に処置する」こととされていましたが、杉原副領事は外務本省の「通過査証は、行き先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」との指示にある要件を満たしていない者に対しても通過査証を発給したと承知しています。 2. 外務省としては、当時の状況下、杉原副領事は勇気ある人道的行為を行ったと認識しています。 — よくある質問集: 欧州 1992年3月の衆議院予算委員会において渡辺美智雄外相と宮澤喜一首相が杉原について発言している。 外務大臣 渡辺美智雄 (第123回国会 予算委員会第二分科会 第1号 平成4年3月11日)「杉原さんが訓令違反で処分されたという記録はどこにもない」 「私は、その事態をよく見て人道的な見地からそれだけの御苦労をして出国をさせたということは、やはりすばらしかったなと、過去を振り返ってそのようなたたえたい気持ちであります」 内閣総理大臣 宮澤喜一 (第123回国会 予算委員会 第17号 平成4年3月13日)「報告を受けておるところによりますと、杉原副領事の行った判断と行為は、当時のナチスによるユダヤ人迫害といういわば極限的な局面において人道的かつ勇気のあるものであったというふうに考えております。この機会に改めてその判断と功績をたたえたいと思います」 さらに遡ると、1991年5月、中山太郎外務大臣がイスラエルに正式訪問し、公式の場において、「日本国民の一人として人道に基づく杉原副領事の判断と行動を深く誇りにする」という趣旨の発言をした。 杉原千畝は戦前に朝鮮と満州、特に前者において支配者側の権利を存分に行使したその戦後日本の周辺諸国との関係上好ましからざる遍歴、また何より訓令を発した外務省当局への忠誠心の欠如とあり、外務省は戦後彼を冷遇し続けた。杉原は近衛訓令「米三機密合第1447号」に反したものの、ユダヤ人寄りの安江仙弘大佐の働きかけで策定された「猶太人対策要綱」には合致しているという主張もあるが、外務省は「猶太人対策要綱」を「米三機密合第1447号」(近衛訓令)と同様の趣旨であるとして在外各公館長に訓令「暗 合 第3544号」(有田訓令)を伝えたのである。
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