本土への渡来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 20:02 UTC 版)
前述のように、一般的には日本列島の南方から順に伝わった、とされるが、室町時代や安土桃山時代に中国や東南アジアから直接、九州各地の貿易港や畿内の堺などにもたらされていても不思議ではない。以下に記すように、導入ルートも複数ある。もっとも多くは栽培に成功したわけではなく、定着には至っていない。本土で最初にサツマイモが定着したのは薩摩藩であったとされる。 後世に薩摩藩で編纂された農書・本草学書『成形図説』に拠れば、慶長から元和年間(1596から1623年)にかけてのうちに領内の坊津港でのポルトガル人との貿易において、ルソンからの交易品として既にサツマイモがもたらされていた、とされる。 1614年(慶長19年)、肥前国平戸のイギリス商館長公使のリチャード・コックスの命を受けたウィリアム・アダムス(三浦按針)は、平戸からシャム(タイ)に向けて貿易のための航海に立った。しかし中古の中国ジャンク船を改造したシーアドベンチャー号は浸水を起こし、緊急に琉球国那覇港に寄港した。船の修理を行う間にアダムスは現地の芋を入手し、翌1615年(元和元年)に平戸に持ち帰った。イギリスで食されていたジャガイモに似ているため、コックスは平戸で畑を借り、農民に委託する形でこれを栽培した、とコックスの日記に記されている。コックスはこれを「琉球芋」と記している。 同じく元和の頃、薩摩出身の僧侶であった鼎山が、紀伊国に持ち込んだ、とされる。 1692年(元禄5年)、伊予国今治藩の重臣江島為信が、日向国から今治藩領に種芋を移入した。しかし、その後の記録は途絶えており、栽培には失敗したと考えられている。 1697年(元禄9年)、宮崎安貞が『農業全書』を著す。同書で甘藷について記述しているが、宮崎は甘藷そのものを見たことはなかったのではないか、と推測されている。また「薩摩や長崎周辺では「琉球芋」または「赤芋」と言い広く栽培されているが、他地域では知られていない」と記している。宮崎と親交のあった貝原益軒の1708年(宝永5年)の著『大和本草』では、貝原が実際に観察したと推測される記述がみられ、また、「蕃薯(琉球芋、赤芋)」と「甘薯」の二つに分けて区別している。貝原は「蕃薯は長崎に多く、甘い」「甘薯は元禄時期に琉球から薩摩に伝わった」としている。 1704年(宝永元年)に出版された浮世草子『心中大鑑』(書方軒)に、「八里半(後述)といふ芋、栗に似たる風味とて四国にありとかや」とあり、これはサツマイモのことだと推定される。 1705年(1709年とするものもあり)、薩摩山川郷岡児ケ水村の前田利右衛門は、船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で栽培されるようになった。前田利右衛門を祀る徳光神社には「さつまいも発祥の地」とする碑が建てられている。
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