本土へのろう者の転出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 09:20 UTC 版)
「マーサズ・ヴィンヤード手話」の記事における「本土へのろう者の転出」の解説
19世紀初期、アメリカ本土ではろう者教育にたいする新しい考え方・取り組みが現れ、コネチカット州のハートフォードに、アメリカ合衆国初のろう者のための学校、コネティカット聾唖教育指導施設が1817年に開設された。これを受けて同島の多数のろう者が同校に入学した。同校の教師はフランス手話で教授したが、同島出身のろう生徒はMVSLも使い続け、同島以外から来たろう生徒は各自が自身のホームサインを使った。こうしてMVSLを含め、異なる手話体系が同時に使われたことで混ざり合って融合し、今日のアメリカ手話(ASL)と呼ばれる、合衆国最大のろう者共同言語が生まれた、同校はアメリカ合衆国での"ろう者社会"(ろう者コミュニティ)成立の地として機能した。 同校で同島以外出身の配偶者を得て戻ったことで、配偶者のろうの遺伝因子は当然島とは異なるため、島のろう遺伝的背景(遺伝子プール)の多様化に寄与した。また一度島を離れたろう者が別の土地に永住するケースも増えたので、島の遺伝性ろう家系が減少した。以前は他とは隔絶していた、漁民と農民を中心とする共同体は、20世紀の初め頃には島の経済の枢要を占めつつあった、旅行者や避暑を目的とした、季節的な長期滞在者の流入の影響が見え始めていた。観光業界は、漁業や農業ほどろう者には取り組まなかった。こうして通婚や移住を通じて島民は本土とより多く交流を持つようになり、島の共同体は、他所にありふれた開かれた共同体社会の姿に、どんどんと近づいていった。
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