朝鮮の国防態勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
当時の朝鮮と明に対する主な軍事的脅威は、女真や北方騎馬民族、倭寇であった。女真は北の国境地帯で襲撃を繰り返し、倭寇は沿岸部や貿易船を襲撃して掠奪していた。倭寇に対抗するため、朝鮮は水軍を養成し、倭寇の基地の一つであった対馬を攻撃した(応永の外寇)。また、女真に対しては、図們江に沿って防衛線を構築した。この間、朝鮮では比較的平和が保たれていたため、朝鮮軍は要塞と軍船に偏重した編成となっていた。高麗王朝の間に火薬が導入され、朝鮮では火砲が開発されており、これが海戦では大きな威力を発揮し、日本軍との海戦における朝鮮優位につながった。また、室町時代から戦国時代にかけての日本は内乱状態であったため、朝鮮側は倭寇を別とすれば、日本を大きな軍事的脅威とは見なしていなかった。秀吉が日本を統一し、1588年の刀狩、海賊停止令により倭寇は終息に向かったが、朝鮮側は秀吉の侵攻も倭寇による襲撃の延長線上程度にしか考えていなかった。 1583年、学者で名の高かった当時の兵曹判書(現在日本の防衛大臣に当たる)李珥は全国の兵力を100,000人に増員するよう朝廷に進言したが、李珥は西人派であったため、当時の政権を握っていた東人派(柳成龍が領袖)はこの提案を却下。1588年には南部沿岸の20の島を武装する提案が地方長官から出されたが却下された。1589年に軍事訓練所が設置されるが、若すぎるか、老兵ばかりを採用し、その他に冒険好きの貴族と、自由を求める奴婢階層がいるのみであった。1590年には釜山港湾の要塞化案も出されたが、却下された。日本の侵攻がますます現実味を帯びてきて、この問題について文官柳成龍が立場を変えた後も、政治的な権力争いのための論争が行われるばかりで、実際の軍備拡張は不十分だった。 また、柳成龍が「(将軍が)百人いても誰も兵の訓練方法を知らない」と嘆くほど、朝鮮の軍人は軍事的知識よりも社会的な人脈によって昇進が決定されていたといわれ、軍隊は組織が緩み、兵士はほとんど訓練されておらず、装備も貧弱で、普段は城壁などの建設工事に従事していた。官僚制の弊害も指摘される。 一般的に朝鮮の城塞は山城で、山の周りに蛇のように城壁をめぐらせるものであった。城壁は貧弱で、(日本や西洋の城塞のような)塔や十字砲火の配置は用いられておらず、城壁の高さも低かった。戦時政策としては、住民全員が近隣の城へ避難する事とし、避難しなかった住民は敵に協力する者とみなすとされたが、多くの住民にとって城は遠すぎた。
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