最強戦・名人戦
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呉を嘱託として十番碁を主催していた読売新聞では、1957年に「実力名人を決める」との謳い文句により「日本最強決定戦」、別名「六強戦」を開始する。これは呉、藤沢朋斎、橋本宇太郎、坂田栄男、木谷実の各九段と高川本因坊の6人によるリーグ戦で、呉としては既に打ち込んだ相手との互先の対局となったが、第1期は8勝2敗の成績で優勝。翌年の第2期には5勝5敗で3位、61年の第3期には6勝3敗1ジゴで坂田と同率優勝を果たす。この第1期優勝時には、橋本から呉を名人に推してはどうかという提案もされたが実現しなかった。また、同時期、師の瀬越と顧水如から「第2の呉清源」と注目されていた中国人少年陳祖徳らを日本に留学させる計画を訪日した京劇俳優の梅蘭芳との交渉で進めるも長崎国旗事件で実現しなかった。 この約30年に渡り卓越した成績を挙げ、囲碁界に君臨したその期間は「呉清源時代」とも呼ばれた。1961年8月、紅卍会の日本支部設立の調整役をしていた呉は、目白の事務所に向かう途中でオートバイにはねられる。この事故で右足と腰の骨折を負い、東大病院分院に2か月入院した。これ以後、事故の後遺症による頭痛などに悩まされ、年齢的にも40代後半にかかったこともあり、次第に新進の棋士達の追撃を受けるようになる。 61年から1962年にかけて行われた第1期名人戦では、13名のリーグ戦で 呉と藤沢秀行が9勝3敗の成績で同率になるが、呉の最終局の対坂田栄男戦が呉のジゴ勝ち(コミ5目)であったため、ジゴ勝ちは正規の勝ちより下位とするこの時の規定により、藤沢が第1期名人となる。第2、3期のリーグでは呉は2位だったが、第4期には8戦全敗となって遂にリーグ陥落し、この期には弟子の林海峰が名人位に就いた。1976年にはNHK杯戦で準優勝。 1973年の十段戦出場後は対局から遠ざかり、古希を迎えた1984年2月24日に引退。引退式はホテルオークラで行われ、記念の連碁にも多くの棋士が参加した。引退後も研究会を続け、多くの現役棋士に影響を与えるとともに、「21世紀の碁」を提唱。応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦などの棋戦での審判役も務めている。2012年の『週刊碁』の企画「尊敬する棋士、好きな棋士」では第1位に選ばれた。
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