第1期名人戦とは? わかりやすく解説

第1期名人戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:09 UTC 版)

名人戦 (将棋)」の記事における「第1期名人戦」の解説

第1期番勝負1938年開催されず)) 最初実力制名人は、当時の最高段であった八段の全棋士名人候補者決定リーグ参加しリーグ勝ち抜いた名人候補者2名による六番勝負(3勝3敗の場合候補者決定リーグ1位の者が名人)で争うことになった当初は、1935年から2年間のリーグ行い1937年番勝負開催する予定だったが、神田事件によってリーグ半年間中断され、番勝負1938年変更された。 名人候補者決定リーグ当初参加者八段)は、土居市太郎大崎熊雄金易二郎木見金治郎花田長太郎木村義雄金子金五郎八段昇段日順)の7名だった。しかし、神田辰之助八段昇段(すなわちリーグ参加)の是非を巡って紛糾し神田昇段主張する棋士らが一時連盟から脱退する騒ぎとなった結果的に連盟神田八段昇段追認して決着神田萩原淳新八段2名が加わり、9名でリーグを行うこととなった名人候補者決定リーグは、八段棋士総当たりで2局ずつを指す特別リーグ戦の結果と、通常の棋戦における対八段七段戦普通戦)の結果それぞれ点数換算して合算することで順位決した普通戦では、勝敗だけでなく、相手段位手合によって点数定められた)。ただし、候補者決定リーグにおける1位と2位点差8点越え大差となった場合には、2位の者の候補者資格認めず番勝負行わずに1位の者が名人になることとしていた。また、第1期リーグによる点数40点を下回った棋士は、次期第2期)の挑戦者決定リーグ参加停止されることとなっていた(第3期から復帰が可能)。 リーグ戦の結果1937年12月5日から12月6日最終局で木村花田勝利したため、リーグ戦の成績木村花田13勝2敗で並んだが、点数が1位の木村が103.7点、2位花田が95.6となり、8.1点差という大差付いたため、規定により番勝負実施されず、木村名人につくことになった。翌1938年2月11日に、木村名人就位式が実施された。また、木見大崎規定40点を下回り第2期挑戦者決定リーグ参加資格なくなった(なお、大崎病気による途中棄権であり、第2期リーグ途中で死去したが、木見規定により第3期からリーグ復帰した)。

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