最上義光:安土桃山時代までとは? わかりやすく解説

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最上義光:(前史)安土桃山時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 10:06 UTC 版)

山形藩」の記事における「最上義光:(前史安土桃山時代まで」の解説

山形藩藩祖戦国時代よりこの地を支配していた最上義光である。最上氏室町幕府より羽州探題任じられ斯波兼頼を祖とする名門だが、戦国時代に入ると一族間の相続争い重臣間の対立隣国伊達氏内政干渉などにより衰退していた。この中で最上氏11代として登場したのが義光である。彼は父義守と対立して抗争起こし、父を出家隠居させて強引に当主となった。しかし天正2年1574年)に義光の度重なる強引な施策激怒した義守は娘婿伊達輝宗支援得て反乱起こした天正最上の乱)。だが義光には家中宿老味方し、義守に味方したのは最上宗家に対して反抗自立心根強い天童頼長村山郡における豪族けだった結局争いは義光と伊達氏白鳥氏仲介和議を結び、最上氏をまとめた義光は以後村山郡領国化を推進したその後も義光は細川氏鮭延秀綱らを攻めて最上地方平定。また庄内地方にも進出し同地支配していた大宝寺義氏天正11年1583年)に滅ぼした川西地方最上川西岸)も白鳥氏謀殺し、大江氏自害追い込んで平定した。だが庄内豪族には隣国越後の上景勝支援受けて反抗する者もおり、特に義氏の跡を継いだ実弟の義興に至って景勝重臣本庄繁長次男義勝養子にして義光に反抗した天正15年1587年10月、義光は義興を攻めて自害させ、庄内を完全に制圧した。しかしこの義光の行為当時豊臣秀吉臣従していた上杉家対す軍事行動で、また秀吉出した関東奥羽両国惣無事令違反するものでもあり、以後庄内上杉後ろ盾とした本庄繁長最上義光抗争の地となった天正16年1588年8月最上氏大崎合戦への救援向かい庄内手薄になっているのをみた本庄軍は軍事行動起こした。この時、義光の本隊救援が間に合わず庄内在地東禅寺氏や中山氏最上豪族連合軍鶴岡大山中間位置する十五里ヶ原で激突した十五里ヶ原の戦い)。この戦いで最上方は大敗し庄内失った。またこの頃には徳川家康仲介受けて義光は早く上洛するように求められており、義光はこれを受けて家臣上洛させて秀吉謁見させている。天正18年1590年)に秀吉小田原征伐開始すると、家康から小田原参陣の要請受けた義光は6月に参陣したことから所領13万石安堵された。義光は次男家親を家康近侍として差し出し一方で秀吉にも三男義親愛娘駒姫差し出してお家安泰図った。しかし文禄4年1595年)に秀次事件起きると、秀次の愛妾だった駒姫処刑され、義光も聚楽第拘禁された。

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