最上義光:関ヶ原の戦いと以後
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「山形藩」の記事における「最上義光:関ヶ原の戦いと以後」の解説
このため豊臣家に対して不満を抱いた義光は、秀吉没後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍方(徳川)に就いて西軍方で越後から会津藩に移封されていた上杉景勝と戦った。最上軍は兵力では圧倒的に不利だったが、上杉軍を相手に各地で奮戦した。9月30日に関ヶ原で西軍本隊が壊滅した情報が入ると、最上領に侵攻していた上杉軍は全軍撤退が行なわれて攻守逆転。義光は先年に奪われていた庄内も奪い返し、慶長6年(1601年)8月に家康の関ヶ原における戦後処理において最上家には大幅に加増されて57万石(52万石説もある)の大大名となり、義光はその初代藩主として君臨した。 最上家は置賜郡を除く山形県全域と秋田県の一部を有して57万石といわれるが、21万石、51万石、57万石>の諸説がある。これは家康の朱印状が存在しておらず、公認されていた所領高が不明な点もある。また山形は肥沃な地で、57万石はあくまでも表高であり、内高は100万石に近かったとする説がある。 義光は慶長16年(1611年)から翌年にかけて庄内・由利において検地を実施。また開発・開削を実施し、城郭を拡大して街道を整備し、水運を発展させて山形を軍事都市としてだけでなく、東北における政治経済の中心地とした。
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