日本における算命学
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第二次世界大戦後の中国で共産党革命が起こり、伝承者であった呉仁和が日本の長崎に亡命した[要出典]。その算命学の理論は高尾義政に伝承された。ただし高尾義政が長崎において呉仁和から指導を受けていたはずの時期に、占術書の販売・出版で有名であった鴨書店で高尾義政を度々見かけたという、鴨書店の店主・鴨志田の話もある。 高尾義政宗家の自宅で宗家から直門の弟子として算命学を学んだ、清水南穂(明学院学長)・中村嘉男(後の高尾学館校長)・野島和信(後の伝習院学院長)の3名がいる。 また、高尾学館と伝習院で宗家直系、本流の算命学を学んで後に『万象算命学』の創始者となった算命学者・伯耆弘徳(ほうきこうとく)は「算命学は高尾宗家によって創始された。」と語っている。 日本でのいわゆる算命学には、台湾系と日本系があり、台湾系が西川満によって継承され、日本系が高尾義政によって継承されたとされている。西川満の著書に昭和四十七年発行の「天中殺」(講談社)などがある。これは中国北方系算命研究家達によって秘伝として伝承されてきたものが、文化大革命以後に台湾と日本に分裂して伝播された経緯がある。[要出典] 算命学は、その後日本において高尾義政によって有名となった。高尾義政文学博士の著書は、原典算命学大系ほか複数残されている。 詳細は干支の項目参照 算命学では各年・月・日(・時)に干支が割り振られている暦を用いる。甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸 を 十干、子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥 を 十二支、十干の干と十二支の支で「干支」となる。 干支 十干読み五行 甲 きのえ 木 陽 乙 きのと 陰 丙 ひのえ 火 陽 丁 ひのと 陰 戊 つちのえ 土 陽 己 つちのと 陰 庚 かのえ 金 陽 辛 かのと 陰 壬 みずのえ 水 陽 癸 みずのと 陰 十二支読み方 子 ね 丑 うし 寅 とら 卯 う 辰 たつ 巳 み 午 うま 未 ひつじ 申 さる 酉 とり 戌 いぬ 亥 い 各人の生年月日から陰占を、そこから陽占(=人体星図)を割り出す。陽占では個人の性格などを表す十大主星と人生の諸段階の運命を暗示する十二大従星をみることができる。 陰占 生日 生月 生年 干=核支=右・左足 干=腹支=足 干=頭支=肩 蔵干=右・左手 蔵干=核 蔵干=左・右手 陽占 頭(親・目上) 左・右肩(初年期) 右・左手(配偶者) 胸(自分自身) 左・右手(兄弟姉妹) 右・左足(晩年期) 腹(子供・目下) 左・右足(壮年期) 手、肩、足の左右はおそらく諸派があって統一されていないが、1つだけある肩は普通向かって右側に配置されるようである。なお、肩は初年期、肩の下の足を壮年期、反対側を晩年期、肩がある方の手を兄弟姉妹・友人、ない方を配偶者と考えれば間違うことはないと思われる。これは、紫微太一を中心に自転軸の動きに従って気の流れを読み取ることが原則になっている。この原意は、皇帝を国家の象徴とみなす算命学の伝統に則ったものであり、皇帝の人体図から国家の命運を判断していた算命学家の伝統を今に伝えてる。 日の干支は、次のようになる。 陰占 生日 生月 生年 干支 癸酉 甲午 丙戌 蔵干 辛 己 辛 陽占 司禄星 天堂星 龍高星 車騎星 龍高星 天胡星 調舒星 天馳星 また後天運では、十大主星や十二大従星を総合的に判断し、大運では変剋律を見るのが特徴で、算命学では神殺を使用しないで、位相法を重要視している。そもそも算命学は、旺相休囚死の強弱や位相法の立体原理を基本としているため、月の潮汐や太陽の運行や季節の巡りを重要視しているので、時柱・神殺・空亡の解釈において四柱推命との相違が見られる。
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