政治と外交の経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 10:02 UTC 版)
「ジョン・W・デイビス」の記事における「政治と外交の経歴」の解説
デイビスの父はウェストバージニア州を分離創設することになったホイーリング会議の代議員であったが、奴隷制を支持し、アメリカ合衆国憲法修正第15条の批准に反対した。デイビスは父の保守的な政策の大半を引継ぎ、女性参政権、連邦政府の児童労働法、反私刑規制およびハリー・S・トルーマンの公民権計画には反対し、私人としてはアフリカ系アメリカ人が投票を許されるべきかということを問題にすることで人頭税を擁護した。民主党支持ということでも父の姿勢を継承し、後に保守的な事業の利益を代表してニューディール政策に反対したときでもそうだった。デイビスは最後のジェファーソン流民主主義支持者の一人に位置付けられ、州の権限を支持し、強い行政権に反対した(デイビスはトルーマンの進めた鉄鋼産業の国有化に反対する指導的弁護士になった)。 1911年から1913年はウェストバージニア州選出のアメリカ合衆国下院議員となり、クレイトン法を共同提案した。また、ロバート・W・アーチボルド判事の弾劾裁判ではマネジャーの一人として成功に導いた。1913年から1918年はアメリカ合衆国訟務長官を務め、1918年から1921年は在イギリスアメリカ大使となった。訟務長官としては、「グィン対アメリカ合衆国事件」でオクラホマ州の「祖父法」を違法とすることに成功した。祖父法とは1866年に選挙権登録していた白人の子孫をその選挙法で規定する識字能力試験の対象から除外することで、実質的に黒人市民の大半から選挙権を剥奪するものだった。デイビスの個人的な立場は弁護士としての立場とは異なっていた。デイビスはその経歴を通じて個人的な見解と職業上の弁護を使い分けることができた。 デイビスは1920年と1924年の民主党大統領候補指名争いでダークホース的存在だった。友人で共同経営者のブランク・ポークが1924年の民主党候補指名集会での運動を演出した。 デイビスは1924年の党員集会で103回目の投票で妥協の候補者として指名を得た。ウッドロウ・ウイルソン政権の訟務長官としてクー・クラックス・クランを告発していたことと黒人の投票権を以前擁護していたことが、南部やそれ以外の保守的民主党支持層の票を得るには不利になった。この選挙では共和党現職で選挙運動のためにホワイトハウスを離れることが無かったカルビン・クーリッジに大敗を喫した。 デイビスは、禁酒法撤廃を促進した影響力有る組織の社会活動諮問評議会の委員であった。1921年に作られた外交問題評議会を設立した委員長であり、1922年から1939年のロックフェラー財団の理事でもあった。
※この「政治と外交の経歴」の解説は、「ジョン・W・デイビス」の解説の一部です。
「政治と外交の経歴」を含む「ジョン・W・デイビス」の記事については、「ジョン・W・デイビス」の概要を参照ください。
- 政治と外交の経歴のページへのリンク