政治と土地の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:25 UTC 版)
「ウィリアム・ストートン」の記事における「政治と土地の開発」の解説
ストートンはイングランドで別の地位を得られる見込みが少なかったので、1662年にマサチューセッツに戻った。ドーチェスターやケンブリッジで何度か説教を行ったが、恒久的な神父の地位の申し出は断った。その代りに政治と土地開発に関わるようになった。1671年から1686年までほぼ毎年、植民地の補佐評議会委員となり(総督評議会の前身)、1673年から1677年および1680年から1686年にはニューイングランド連邦の植民地代表となった。1684年の選挙で、植民地認証の問題について中道的姿勢を示したために、(ストートンやバークリーなどと共に)植民地の敵と呼ばれたジョセフ・ダドリーは、評議員会への再選を果たせなかった。ストートンは辛うじて過半数をとって再選されたが、ダドリーの友人であり事業上の共同経営者だったので、抗議のために就任を拒んだ。 1676年、ピーター・バークリーと共にイングランドで植民地の利益を代弁する委員に選ばれた。その受けた指示事項は何とか達成することができた。現在のメイン州においてマサチューセッツの主張する土地所有権と対立するフェルディナンド・ゴージズとジョン・メイソンの相続者から、土地の権利を取得することを認められた。この権利を1,200ポンドで取得し、そこを弟のヨーク公ジェームズのためにその権利を取得しようと考えていたチャールズ2世の怒りを買うことになった。彼らは、メインとニューハンプシャー植民地の他の領土に対して、マサチューセッツが行った幅広い権利主張を維持することはできなかった。この限られた権限が、植民地の法を自分たちの政策に合うように改変しようとしていた貿易省を動揺させた。ストートンとバークリーの任務は、その強硬的な姿勢故にロンドンの植民地担当役人に敵意を抱かさせる以上のことはできなかった。 ストートンとジョセフ・ダドリーは長年友人であり、政治でも事業でもパートナーだった。この二人は政治的には密接に協業し、土地開発にも共に携わった。1680年代、ストートンはダドリーと共同で、ニプマク族インディアンから現在のウースター郡でかなりの広さの土地を取得した。この共同事業には、オックスフォードを避難民ユグノーの入植地として設立する事業も含んでいた。ダドリーとストートンはその政治的な地位を使って、興味を抱いた土地に対する権利が法的に問題ないことを確保し、そのやり方が彼らの友人、親戚その他事業上のパートナーにも恩恵を与えた。この手続きに関連して、国王の代理人エドワード・ランドルフが、「国王陛下の権利が関わり、判事もその一党であるときに、土地の権利を裁判に持ち出すのは不可能である。」と記していた。このことは、ストートンとダドリーがメリマック川バレーの土地100万エーカー (4,000 km2) を取得する事業の側にいたときは特に明らかだった。ダドリーの評議会は、ストートンやその他の投資家が評議員になっており、1686年5月に正式の土地の権利問題を明白にした。 1686年、ダドリーがニューイングランド自治領の暫定首長に指名されたとき、ストートンはその評議員に指名され、その評議員の互選で副議長に選出された。エドマンド・アンドロスの治世下では、判事と評議員を務めていた。判事としてのストートンは、自治領政府に対する税問題での抗議を行ったイプスウィッチ町の指導者に特に厳しくあたった。その抗議は代表権の無い状態でニューイングランド自治領が支配するのは、イングランド人の権利を侵しているという主張に基づいていた。アンドロスは、1688年にイングランドで起きた名誉革命によって触発された無血蜂起により、1689年4月に逮捕され、ストートンはその蜂起の首謀者の宣言に署名した一人となった。このとき人民側を支持する声明を出したにも拘わらず、ストートンはアンドロスと親しくしていたために不人気であり、選挙で選ばれる役人にはなれなかった。ストートンは政治的な力を持つマザー家に訴えた。マザー家とはまだ公的的な関係を保っていた。1692年、インクリース・マザーとウィリアム・フィップス卿がロンドンから新しくマサチューセッツ湾直轄植民地の認証状をもって到着し、フィップスには国王による総督の任命書、ストートンには副総督の任命書がもたらされた。
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