政治と戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
『魏志倭人伝』に記される邪馬台国では「会同(政治集会)には男女共に参加し席次も区別されなかった」とあり、大陸に比べると男女差が少なかったと考えられる。また女王卑弥呼とそれを補佐する弟のように、古墳の発掘調査でも首長は男女が対であることが少なくない。その場合の男女の役割分担について、従前は祭祀は女性で行政は男性が行うと考えられてきたが、副葬品などから祭祀は女性のみが担うが、それ以外の権力は男女が流動的に分担していたと考えられている(ヒメヒコ制)。また女性の単独首長もみられ、権力に大きな性差はなかったと考えられるが、武器武具の副葬だけは男女差があり、女性首長が軍事権を行使していた可能性は低いと考えられている。しかし古墳時代後期になると女性首長の埋葬例が減っていく。その理由として首長権の軍事化や父系化が進んだ事などが考えられている。 農耕社会になると戦争で命を落としたと思われる人骨が墳墓から発掘されるが、その中には女性も含まれている。また古墳に埋葬された女性首長の副葬品にも武具が含まれている。『日本書紀』には戦闘に赴く将軍に妻が同行する話が少なくない。舒明天皇9年(637年)条には「上毛野君形名が蝦夷との戦に敗れると形名の妻が女たちに指示をして弓弦を鳴らした」と記している。つまり妻は夫に付き従うのではなく、夫と共に氏族を背負って主体的に考え行動していたと考えられる。このように描かれる姿は、女性も氏族を率いて戦うという自負を弥生時代から持ち続けていた為と考えられる。
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