政治と戦闘的奴隷制廃止運動
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「トーマス・ウェントワース・ヒギンソン」の記事における「政治と戦闘的奴隷制廃止運動」の解説
1850年協定が成立したことで、トーマスは新たな目標と野心を抱くようになった。1850年、結果としては落選したものの、自由土地党の公認でマサチューセッツ州第3選挙区から下院議員に立候補した。トーマスは、市民に対して神の法を仰ぎ、逃亡奴隷法には従わないように訴えた。彼は逃亡奴隷を追跡と捕縛から匿うことを目的としたボストン自警団(英語版)にも参加していた。 参加のきっかけは、シャドラッチとして知られていた自由人たる黒人フレデリック・ジェンキンズの逮捕と公判であった。奴隷制廃止運動家らは、彼がカナダに亡命するのを助けた。ウェンデル・フィリップス(英語版)とセオドア・パーカーも、ボストンに逃亡してきたジョージア州の奴隷であったトーマス・シムズ(英語版)を開放する目的を持って、これに参加していた。1854年、アンソニー・バーンズ(英語版)が逃亡奴隷法によって引き渡しの危機にさらされたとき、トーマスは、棍棒、手斧、包丁、拳銃で武装した数人の集団を率いてボストンの連邦裁判所庁舎を襲撃した。 しかし、バーンズの送還を阻止することはできなかった。その際、トーマスは顎をサーベルで斬りつけられている。後に、彼はその傷跡を誇らしく思うと書いている。 1852年、トーマスはウースターの自由教会牧師に就任した。在職中、彼は奴隷制廃止論だけでなく、禁酒、労働者や女性の権利擁護も支持した。 原因不明の病気にかかっていた妻の療養のための欧州旅行から帰国すると、カンザス・ネブラスカ法が議会を通過してから緊張が高まっていたため、トーマスは平和的手段に出ようとして、ニューイングランド移民支援社(英語版)のための組織を結成した。同法は、適用地域をカンザスとネブラスカの両区域に分け、それぞれの住民が個別にそれぞれの地域内で奴隷制を許容するかどうかについて住民投票を行うものとされた。奴隷制廃止論者、奴隷制支持論者のそれぞれが両地域へと移民を始めた。トーマスも帰国してから、ニューイングランド諸州で演説や募金、マサチューセッツ州でのカンザス支援委員会の組織づくりなどの活動を続けた。彼はカンザス支援全国委員会のエージェントとしてカンザスに戻り、士気の鼓舞と移住者への生活物資供給の任に当たった。奴隷制廃止は平和的手段で達成することはできないと彼は確信した。 派閥争いが激化してきたが、トーマスは分離主義的奴隷制廃止運動への支持を続け、1857年にはウースター分離主義協議会を結成した。この協議会は、たとえ内戦を招いても奴隷制廃止を第一の目標とすべきだと主張した。トーマスはジョン・ブラウンの熱烈な支持者であり、ウェストバージニア州ハーパーズ・フェリー (ウェストバージニア州)で企図された奴隷反乱に必要な資金と物資をブラウンが確保するのを助けた奴隷制廃止論者のグループ「秘密六人委員会(英語版)」のメンバーとしても記憶されている。ブラウンが逮捕されたとき、トーマスは裁判のための資金集めに奔走し、脱獄を手助けする計画まで立てたが、結局は成功しなかった。秘密六人委員会の他のメンバーはカナダに逃亡したか、ブラウンに続いて逮捕された。トーマスも関与していたことは周知の事実であったにもかかわらず、自身は逮捕もされず、証人喚問もされなかった。
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