政治と公的な事項
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「トマス・ブライアン・マーティン」の記事における「政治と公的な事項」の解説
マーティンは領地の管理業務に加えて、伯父の管轄範囲内で政治と公的な事項に積極的な役割を果たし始めた。1752年2月、バージニア植民地議会の法に従い、聖公会フレデリック教区は同年6月1日以前に教区員12人の選挙を行うことを認められた。マーティンは伯父のフェアファックス卿やガブリエル・ジョーンズと共に教区員に選ばれた。マーティンと仲間の教区員は教区の中で聖公会の存在感を拡張拡大することに取り掛かった。 1754年、ハンプシャー郡が創設され、マーティンは郡裁判所の初代判事として差配した。郡を創設した法の下に、最初の郡裁判所が1754年6月に開廷された。しかし、最初の審問が行われたのは1757年12月になってからだった。最初に行われた審問では、マーティンの他に、ジェイムズ・シンプソン、ウィリアム・ミラー、ソロモン・ヘッジズ、ナサニエル・カイケンドールが判事となり、ガブリエル・ジョーンズが裁判所書記官を務めた。1755年、マーティンはさらにハンプシャー郡の副官に指名された。1756年から1758年にはトマス・ウォーカーと共に、ハンプシャー郡を代表してバージニア植民地議会議員に選出された。1758年、マーティンはジョージ・ワシントンと共に、フレデリック郡選出のバージニア植民地議会議員に立候補し、現職のヒュー・ウェストとトマス・スウェアリンゲンに挑戦した。マーティンとワシントンはフェアファックス卿からかなりの支持を得ており、また聖公会フレデリック郡の指導的牧師のウィリアム・メルドラムからも支持を得た。ワシントンが310票を得てトップ当選し、マーティンが240票で第2位だった。ウェストは199票、スウェアリンゲンは45票に留まった。マーティンとワシントンはともにフレデリック郡を代表して1761年まで議員を務めた。1761年、マーティンは再選を求めないことを選び、立法府から引退した。 1758年9月、バージニア植民地議会がマーティンを、ウィンチェスターの信託委員の1人に指名した。さらにスティーブンズバーグ(現在のスティーブンズシティ)の信託委員にも指名された。伯父のフェアファックス卿、ジョン・ハイト、ガブリエル・ジョーンズ、ロバート・ラザフォード、ルイス・スティーブンス、ジェイムズ・ウッドもスティーブンズバーグの信託委員に指名された。1776年10月、バス(現在のウェストバージニア州バークレースプリングス)の町が議会から認証を得た時も、マーティンがその信託委員に指名された。他にブライアン・フェアファックス(後の第8代フェアファックス・オブ・カメロン卿)、フィリップ・ペンドルトン、ロバート・ラザフォード、サミュエル・ワシントン、ワーナー・ワシントン、アレクサンダー・ホワイトなども指名された。 マーティンはフレデリック郡民兵隊の大佐にも指名された。マーティンの健康状態は良くなかったが、領地の開拓者達から頼られ、緊急事態、特にインディアンからの攻撃に対して即座に行動するために、かなりの資源を使うことになった。 アメリカ独立戦争が始まると、マーティンはフレデリック郡の治安委員会判事に指名され、これを務めた。知事のパトリック・ヘンリーから、ウィリアム・ブースやワーナー・ワシントンと共に治安判事に再指名されたが、3人とももう1期務めるのは辞退した。当初、アメリカの大英帝国からの独立は無益な努力だと考え、新しい革命体制の下に仕えることを拒んだので、治安委員会でも宣誓しなかった。委員会は積極的にロイヤリストの逮捕を進めており、それがマーティンが再指名を断る決断をしたことに影響した可能性があった。マーティンは公的な任務から完全に引退し、その後はグリーンウェイコートに隠棲した。マーティンはフリーメイソンとして行動するようになった。
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