指揮通信システム・情報部別班
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:07 UTC 版)
「陸上幕僚監部」の記事における「指揮通信システム・情報部別班」の解説
公式には存在を否定されている が、情報幕僚(G2)にあたる指揮通信システム・情報部(旧第二部、調査部、運用支援・情報部)には、ヒューミントを担当する情報1班特別勤務班、いわゆる別班(Defence Intelligence Team, DIT)が存在するとされている。 前身である警察予備隊の創設当初は旧内務官僚が中心になっていたため、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)参謀第2部(G2)と連携していた有末機関など旧軍の情報参謀の入隊は遅れていた。このため在日米軍では、日米の軍事情報部門の連携を強化するため、1952年より警察士長(3等陸佐)・1等警察士(1等陸尉)クラスの中堅幕僚を在日米軍情報機関に出向させ、研修させるようになった。これが「別班」の起源となった。 そして1954年の日米相互防衛援助協定(MSA協定)の締結と前後して、時の在日米軍司令官ロジャー・マックスウェル・レイミーから首相吉田茂に送付された書簡に基づき、陸上自衛隊と在日米陸軍が合同で諜報活動を行うという秘密協定が締結された。そして1956年頃より、MIST(Military Intelligence Specialist Training、軍事情報専門家研修)として、より本格的な研修コースが開講した。在日米陸軍では、キャンプ座間の第500情報旅団からキャンプ・ドレイクに展開した分遣隊であるFDDが受け入れ部隊となった。日本側では"MIST"に語感が近い「武蔵」が秘匿名として用いられるようになった。 1960年には、ハワイで広瀬部長と太平洋陸軍情報部長が会合し、第1回の日米情報会議(JA会議)が開催された。またこの頃、研修修了者を結集して、陸幕2部長であった広瀬栄一陸将補の直轄下で発足したのが特勤班であった。1961年には日米の非公然の合同工作機関となり、陸自の班長と米軍FDD指揮官が同格で構成する合同司令部のもとに、「工作本部」および日米おのおのの「工作支援部」が配されるようになった。工作本部にはおおむね3つの工作班が設置されていたとされる。また指揮系統としては、当初は2部長の直轄下にあったが、後に2部内に連絡幕僚が置かれ、その後は情報1班長が連絡を担当するようになった。班長は2佐、総員24名だったとされている。なお「武蔵」という秘匿名は1965年に廃止され、以後は単に「特勤班」ないし「別班」と称されたとも、「小金井」と称されるようになったともいわれる。 別班は、当初はFDDと同じキャンプ・ドレイクを拠点としていたが、1973年に同地が日本に返還されたのに伴い、第500情報旅団と同じキャンプ座間に移転した。しかし同年の金大中事件で別班の関与が疑われ、衆目を集めたことから、規模を縮小して、檜町駐屯地の陸幕地下に移転したとされる。現在は防衛省本省敷地内に本部が置かれており、ロシア、ポーランド、大韓民国などでも班員が活動しているという。 班員は全員陸上自衛隊情報学校(旧調査学校および陸上自衛隊小平学校情報教育部)の心理戦防護課程修了者で、他省庁の職員や商社員に身分を偽装して海外で活動している。危険な任務の特性上、万が一の事態が生じた場合に責任が及ばないように、陸上幕僚長、情報本部長には情報の出所を明示せずに収集情報が上げられており、内閣総理大臣や防衛大臣(旧防衛庁長官)にはその存在すら知らされていなかったともされているが、実際には陸幕や内局の上層部も報告を受けていた可能性がきわめて高いとされる。 なお、「情報本部電波部」の前身組織であり、シギントを担当していた陸上幕僚監部調査部第2課別室(通称:調別)とは、別の機関である。
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