抵抗の鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 03:17 UTC 版)
1898年、ファン・ヒューツはアチェの長官に任じられ、後に首相となるヘンドリクス・コレイン(英語版)中尉とともに、アチェのほぼ全域の征服を完了した 。彼らはフルフローニェの言に従って、協力的なウレーバランと手を組み、農村を拠点とする抵抗勢力を孤立させていった。そのうえでオランダ軍は、軽装備のオランダ植民地軍保安隊(英語版)による焦土作戦という対反乱作戦へと方針転換した。ゴトフリート・コンラート・エルンスト・ファン・ダーレン(英語版)大佐はいくつもの村を消滅させ、少なくとも2900人のアチェ人を殺害した。そのうち1150人ほどは女性や子供であった。この作戦におけるオランダ側の死者は26人だった。ファン・ヒューツやフルフローニェの非難にもかかわらず、ファン・ダーレンは昇進し、後に1905年から1908年にかけてアチェの長官となった。 1903年、ムハンマド・ダウド・シャーら多くのアチェ側の主要人物がオランダに降伏するか捕縛された。1904年までにアチェはほぼオランダの支配下に入り、植民地政府と連携する現地政府が置かれた。オランダ側は宗教的寛容を説き、アチェ人に武器と闘争を捨てるよう説得した。しかしながら、この時期に至ってもオランダ軍の残虐行為が散発的に発生していた。1904年には、ガヨ(英語版)アラス地方遠征中にKoeto Reh村で発生した虐殺事件の様子を映した写真が現存しており、オランダ軍による市民の大量虐殺がたびたび発生していたことを示している。戦争を通じて、アチェ側の死者は5万人から6万人、傷病者は100万人に上ったと推定されている。また従来のアチェ社会はほとんど崩壊し、1万人の難民が海を挟んだイギリス領マラヤに逃れた。 オランダ本国では、ファン・ヒューツは「アチェの調停者」と呼ばれ英雄となった。彼は1904年に全オランダ領東インドの総督に昇進した。アムステルダムには彼の記念碑が残っているが、後に彼の時代の暴力的な治世とその遺産に抗議するため、彼の肖像と名前は取り除かれている。アチェの既得権層は、国際規範を受け入れない君主の抑圧から大衆を解放するという体をとることで、この大乱を経てもその特権を維持した。アチェ戦争の最終勝利に勢いづいたオランダは、1901年から1910年にかけて、バリ島、モルッカ諸島、ボルネオ島、スラウェシ島の独立勢力を次々と併呑していった。 ガヨを拠点として続いていた一大抵抗運動は、1914年までには鎮められた。とはいえ、アチェの奥地にある高地には十分な支配がいきわたらず、ウラマーを中心としたゲリラの反乱が1942年まで散発的に起きた。しかし勝利が見えない戦いの中で、ウラマーたちも次第に抵抗を諦めていった。
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