抵抗の理論、モナルコマキ
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「抵抗の理論、モナルコマキ」の解説
「モナルコマキ」も参照 カルヴァン自身は信徒に反乱や抵抗を認めなかったが、カルヴァン死後のカルヴァン派は国家からの弾圧に抵抗し、上述のように1572年には聖バルテルミの虐殺事件が発生した。その翌年、ジュネーヴのテオドール・ド・ベーズは『臣民に対する為政者の権利について』において、人民の同意しない僭主や、また正当な君主であっても権力を濫用する場合の抵抗権を主張した。ただし、ベーズは抵抗する資格のない個人の権利については制限しており、抵抗する資格があるのは次位の為政者、具体的には大貴族や三身分会であるとしている。 同年にはフランソワ・オットマン著『フランコガリア』が刊行され、ゲルマン人の伝統である等族国家の「祖先の良き法」によって絶対主義に対抗する思想を表明した。ローマ人が専制政治を持ち込み、ゲルマン人には本当の自由があるという観念は、18世紀のシャルル・ド・モンテスキューも「自由はゲルマンの森より」と述べており、こうしたゲルマン的自由を制度にしたものが選挙王政や等族国家における立憲主義とみなされた。 暴君への抵抗理論の典型例といわれるのが、「ユニウス・ブルートゥス」なるペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』(『暴君に対する反抗の権利』)である。このパンフレットでは、君主は「神の代理人」として神の法を行う義務を負うと述べて『旧約聖書』を引用し、神、君主、人民の間には契約があるとする。したがって、君主が神の法を侵した場合には服従しなくてもよいということになる。そしてベーズ同様に、王に抵抗できるのは次位の為政者である貴族だけであるとされ、ここでも等族国家をモデルとした考えがうかがえる。一方、近隣の暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことは真の宗教を擁護することであるとして肯定される。このような暴君放伐論者は、モナルコマキ (Monarchomaque) と称された。 カトリック側でも虐殺は行き過ぎだとする反省の意見が出てくると、これに反発するイエズス会などのカトリック強硬派がユグノーをもっと弾圧すべきであると主張し、リーグとよばれる同盟を結んだ。1584年に王位継承者がアンリ・ド・ナヴァルとなったとき、将来的にユグノーの王が出現する可能性が生じたため、これを抑える意見としてユグノー側から発せられたモナルコマキの理論を借用して、権力は人民から来ており、契約違反があれば抵抗権が認められると主張した。イエズス会のロベルト・ベラルミーノは『至高の権力について』においてローマ教皇の権威を強調し、ジャン・ブーシェが国王アンリ3世暗殺ののち『アンリ3世の正統な退位について』でアンリは契約違反であったと論じた。このほか、イスパニアのマリアナやフランシスコ・スアレスがおり、スアレスは国法と自然法を区別したことによってフーゴー・グローティウスの先駆者とされる。しかし、リーグの教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)はフランスの国益という観点から支持されなくなり、また暗殺のような手段をとったことで勢力を失った。
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