抵抗と頓挫、滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 04:16 UTC 版)
「愛国派 (ポーランド)」の記事における「抵抗と頓挫、滅亡」の解説
スタニスワフ・シュチェンスヌィ・ポトツキ、フランチシェク・クサヴェリ・ブラニツキ、セヴェルィン・ジェヴスキら反改革派は、いわゆるヘトマン派(Stronnictwo hetmańskie)を形成していた。彼らは次いで黄金の自由と枢機卿法を守るためタルゴヴィツァ連盟を結成し、ロシアに支援を求めた。ロシアのエカチェリーナ2世も、5月3日憲法がポーランドを必要以上に強大化させてしまうだけでなく、ロシア国内に悪影響を及ぼして絶対王政を揺るがしかねないと危惧していたため、ただちにタルゴヴィツァ連盟を認めた。 1792年、タルゴヴィツァ連盟・ロシア軍はポーランドに侵攻し、スタニスワフ2世と改革派を破った(ポーランド・ロシア戦争)。この後のグロドノ・セイムで5月3日憲法は廃止され、ポーランド国家も第二次分割を受けて滅亡の瀬戸際に立たされた。フーゴ・コウォンタイ、イグナツィ・ポトツキ、スタニスワフ・マワホフスキら改革派の中心人物は国外へ亡命し、反撃の機会をうかがった。そして1794年、彼らはタデウシュ・コシチュシュコを中心としてコシチュシュコの蜂起を起こし、ロシアへの最後の抵抗を試みた。この蜂起が失敗したことで、1795年に第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド・リトアニア共和国は消滅した。ここに、改革派によるポーランド復活の試みは完全に無に帰した。
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