抵抗の地として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 16:18 UTC 版)
歴史上、数々の事件における抵抗の地としても知られている。地理的にも山中に無数の登山路が発達し、韓国南部のいずれの地域にも面しているほか、深い谷や急峻な山並で構成される地形は、軍事戦略上も重要な地域である。 豊臣秀吉による文禄・慶長の役では、智異山中に潜む朝鮮軍が全羅道に出陣した小早川隆景(第6軍)らを苦しめた。 1894年に起きた甲午農民戦争では、蜂起した農民が山中にとどまり抵抗を続けたことで知られる。 1900年代初頭の日韓併合に至る大韓帝国末期には、抗日闘争の拠点となった。 1948年に起きた麗水・順天事件では、反乱部隊が山中に立てこもり、後の朝鮮戦争時にはパルチザンの拠点となった。 1951年に韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件が起こされた。 朝鮮戦争時、韓国軍の反撃に遭った朝鮮人民軍兵士が立てこもったほか、朝鮮人民軍に呼応する市民が続き大規模なパルチザン抵抗を展開した。智異山は朝鮮戦争激戦地としても名を残している。現在、山麓に「智異山パルチザン討伐展示館」がある。 上記の事件をはじめとした数々の抵抗と虐殺の舞台ともなっており、抵抗拠点とされる遺跡の近くでは、今でも人骨が出土するといわれる。
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