歴史への登場とアラウコ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 07:25 UTC 版)
「マプチェ族」の記事における「歴史への登場とアラウコ戦争」の解説
マプチェ族の名が歴史に記されるのは、新大陸発見以降のスペイン進出に始まる。それ以前のマプチェ族は、大規模な連合こそ形成されなかったが、長年のインカ帝国の侵略に耐え、これを跳ね除けて来た(マウレの戦い(英語版))。コンキスタドール(征服者)のディエゴ・デ・アルマグロとのレイノウェレンの戦い(スペイン語版、英語版))、さらにラウタロやカウポリカン(スペイン語版、英語版)やコロコロといった優秀な指導者の登場により、16世紀に現れた新たな侵略者・スペインに対しても300年以上闘い続けた。侵略初期に奪われた土地を取り戻し、19世紀後半まで自治を維持した例もある。ビオビオ川はマプチェ抵抗の地として知られ、彼らは自然の地形を利用してスペインへの反抗を続けた。この間、しばしば交易や外交的な交渉が取り交わされるなど、マプチェとスペインの関係は必ずしも膠着的な戦闘状態にあったわけではない。それでも、アラウコ戦争(en)と呼ばれる長期にわたる対立はアロンソ・デ・エルシージャ(en)の叙事詩『ラ・アラウカーナ(en)』に残され、その記憶は消えることは無い。 チリがスペイン王国から分離独立した際、一部に協力的な者もいたが、ほとんどのマプチェ族は無関心か、もしくはその出来事そのものを知らなかった。この認識不足は、入植者たちがもたらすマプチェに与える脅威についてあまり深刻に考えておらず、過去からこの土地で受け継いできた暮らしが変わる可能性を想像だにしていなかったことを証明している。事実、チリ独立後もマプチェ族はビオビオ川北岸に住む用心深い植民者たちと、時に衝突を起こすこともあったが、おおむね問題なく共存し交易を行っていた。だが、チリ政府は膨張する経済を支える資本を獲得するためにも、アラウカニアを支配下に置く準備を進めていた。
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