抵抗するギリシャ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:20 UTC 版)
「トルコクラティア」の記事における「抵抗するギリシャ」の解説
伸長を続けるオスマン帝国の前に一部のギリシャ人らはこれに抵抗した。これは西欧の十字軍に触発されたものが大部分ではあったが、一部では自然に発生した。多くはビザンツ帝国の執政官、知識人ら、教会の高位聖職者、ヴェネツィア、ナポリなどに使えていたギリシャ民兵らであった。特に教皇ピウス2世の特使としてベッサリオン枢機卿がヨーロッパ各地で、イアノス・ラスカリス (en) がフランスやイタリアで対オスマン帝国の気炎を上げた。さらにトルコ、ヴェネツィアの間での戦いが勃発するとミカエル・ラリスやペトロス・ブーアスがペロポネソス半島での蜂起を指導し、さらにクロコディロス・クラダス大尉は和平が結ばれた後にも単独で戦いをつづけた。 一方、フランス王シャルル8世はビザンツ皇帝継承権者アンドレアス・パレオロゴスからビザンツ帝国の王位を買い取ろうとした。これはギリシャ人らの間で反響を呼び、ローマ教皇やスペイン、ナポリによる十字軍、さらにハプスブルク帝国と中央ヨーロッパ諸国によるオスマン帝国への遠征の間、ギリシャ人らは何度も蜂起を行った。特にローマ教皇の意を受けた艦隊がペロポネソス半島に向かうとペロポネソス半島とギリシャ本土は同時に蜂起を行なっている。 そしてレパントの戦いでキリスト教連合軍が勝利するとギリシャ本土、マケドニア、エーゲ海島嶼部で蜂起が発生、特にマニ地方ではメリッシノス兄弟の指揮のもと、蜂起を行った。これらの蜂起はヴェリコ・タルノヴォの大主教ディオニシオス・ラリス・パレオロゴスを相談役としてギリシャの人々を含めた軍を率いたワラキアのミハイ勇敢王 (en) やトリカラ大主教ディオニシオス、ファナリ主教セラフィムらが蜂起していたテッサリアなどに広がった。しかし、これはオスマン帝国によって鎮圧されセラフィムは殉死、ディオニシオスはイタリアへ逃亡した。 イタリアへ逃亡したディオニシオスはパレオロゴス家の末裔でヌーヴェル公を務めていたシャルル2世とギリシャの復活を目指して活動したが、イピロスで暴動が発生したに過ぎず、またこれも即座に鎮圧された。さらに1645年から1715年までヴェネツィア軍がギリシャ各地でオスマン帝国軍に対抗したのに呼応して様々な蜂起が発生したが、これは規模が小さいものでしかなかった。
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