当時の逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/13 03:28 UTC 版)
当軌道には軽便鉄道としてはかなりの急勾配となる区間が複数あり、その克服については常に苦心が付きまとった。特に遠刈田 - 永野駅間は連続して33‰勾配が続くなどしていたが、これは現在のJR東日本において最急勾配となる、奥羽本線の板谷峠越えに匹敵する急傾斜である。そのため遠刈田駅から永野駅へと傾斜を下る際には約15分ほど、逆に永野駅から遠刈田駅へと勾配を登る際にはで約2時間ほどと、同じ区間を走行するにおいて非常に極端な時間の差が見られることもあった(時刻表の上では、永野行きが約35分ほど、遠刈田行きが平均で約45分ほどに設定されていた)。 疣岩駅は当初、遠刈田駅と永野駅の間にある急勾配区間への対策施設として作られた。付近は渓谷状を成しており沿線において最も人家の少ない地域に位置することから、旅客扱いなどについては他の駅と違う状態であった可能性がある。しかしその詳細については不明である。 仙南軌道の時代から、永野駅には現在の白石市や角田市と軽便線とを結ぶバスが頻繁に発着し、一種のターミナル駅としても栄えていた。しかし並行する県道が整備されると、各地と永野駅を結んでいたバスは遠刈田温泉まで直接乗り入れるようになってしまい、そのことによって軌道線のみならず駅周辺までもが衰退していった。 現在の永野地区には駅内(えきない)の地名があるが、これはこの地区が笹谷街道の宿駅であったことから起こったものである。当軌道の永野駅は、初期にはこの地名の場所から西方に、後には東方300mほど離れた別の場所に置かれていた。 当時の蔵王町円田地区は良質な珪藻土の産出地として知られており、主に当軌道の平沢駅から長期間に渡って出荷された。最盛期には2t貨車で10両分もの荷を毎日のように積み出すなどその取扱量は大きく、後半年は赤字に苦しみ続けた当軌道にとって、その輸送料は非常に貴重な収入源となった。 大河原 - 村田間の路線は周囲に田畑のある場所が多かった。城南軌道の頃には後の時代よりも小型の機関車を使っていたため、走行中に蒸気機関用の水が足りなくなることが多く、その度に周囲の田畑から水を掬って使っていた。また機関車には、その時に使うためのバケツや空き灯油缶が常に結わえられていた。 当軌道はその前身であった仙南軌道の予定に基づき、永野駅と省線北白川駅とを結ぶ支線の計画も持っていた。また当軌道とは別に、永野駅と当時この地方の中心地であった白石町(現在の白石市)との連絡を目指し、「白石軌道」と言う会社を立ち上げようとする計画も存在した。しかしこれらは何れも資金集めなどに具体性が乏しく、すべて企画のみで実現しなかった。 当路線は最初、鉱山鉄道として遠刈田駅を中心に建設された背景を持つ。そのため当時の様子を描写する資料にはしばしば、遠刈田行きを上り、大河原行きを下り、とする書き方が見られる。統合の以前、以後を問わず、路線の起点駅がどこに設定されていたのか正確には不明である。
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