当時の賄賂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)
当時、勅使饗応役に就任していたのは、4万石から7万石前後の所領を持つ城主の外様大名、院使饗応役に就任するのは1万石から3万石前後の陣屋の外様大名であることが多かった。また、任ぜられた大名が高家から指南を受ける場合、指南料や何らかの贈り物をするのが慣例となっていた。そうした中、当時の文献には義央が暗に賄賂を要求したが、浅野長矩が十分な賄賂を送らなかったことが両者の不和の原因だとするものがある。 松之大廊下で刀傷事件が起こった時には、二回目の勅使饗応役である浅野長矩は義央に指南料として大判金1枚・巻絹1台・鰹節一連を贈っている。同時期に、院使饗応役を任じられた伊予吉田藩主の伊達村豊は、大判100枚・加賀絹数巻・狩野探幽の竜虎の双幅を贈っている。また、饗応役の指南料の相場については、はじめに「御馬代」といった名目で大判金を1枚、無事に役目を果たした後に、さらに大判金1枚を贈るのが慣例だったとされている。また、金子に添えられる付届は、国土産という国の産物であった。 また、当時の指南・指導に対する指南料については、事例は少し異なるが、以下のような例がある。 明暦2年(1656年)正月に後西院が即位した際に、薩摩藩は島津忠弘を使者として上京させて、朝廷に祝儀を贈っている。その際に忠弘は、指導を受けた幕府の上使である松平頼重と吉良義冬、及び京都所司代牧野親成にそれぞれ「太刀・馬代」として銀一枚を贈っている。この時、牧野は受領したが、松平・吉良は返納したと記されている。このように指南料を返納したのは、父の吉良義冬の頃には、指導・助言に対する贈答行為は定着していなかったためであろうとされている。
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