当時の認識・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 08:35 UTC 版)
汚職政治の時代という認識は当時から存在し、判じ絵や狂歌、落首といった形で民衆にも風刺されてきた。側用人が幕政を主導するということについても、それ自体が柳沢吉保以来の奸臣のイメージであり、譜代門閥層の反発があった。また、幕府の諸政策に関しても、町人から幕府が、換言すれば市民から政府が継続的に税収を得ることは、近代以降としては当然の政策であるが、農民からの年貢が基本であった当時の制度認識からは異例の政策であり、特に遊女屋などの賎職からも運上金を集めたことは批判があった。利益追求の風潮は、政敵である松平定信以外にも伊勢貞丈などにも批判された。現在では肯定的に評価される南鐐二朱銀も、両替商の権益を侵害するなどして、非常に町人や商人から不満を持たれた。また、意次が例えば平賀源内や工藤平助などの下級身分や町人を能力次第で重用したり、場合によっては帯刀を許したことも、当時からすれば身分秩序の破壊であったし、ロシアとの外交政策も旧来の幕法を犯すものとして批判された。加えて、度重なる天災は、それ自体が悪政に対する天罰であると見なされた。意次の嫡男・田沼意知暗殺に際してはそれを行った佐野政言が世直し大明神として崇め奉られた。 田沼時代の悪政評価は、後述するように寛政の改革期に松平定信ら反田沼派が実態以上に強調した側面も大きいが、このように当時から存在していた。ただし、少なくとも当時においては単に汚職政治だけを指したのではなく、当時の常識からして異例の諸政策や風潮も批判されたという側面を含んでいる。 一方で田沼時代を肯定的に見るのは、寛政の改革によってそれが終わりを迎えた後、懐かしむ形で生じた。「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」の狂歌は現代でもよく知られる。また、幕末の混乱期には長崎奉行を務めた内藤忠明が意次がいれば先例に拘泥せず傑出した策を講じただろうと評し、川路聖謨は石谷清昌を「豪傑」と高く評価した上で、その石谷を登用した田沼も「正直な豪傑の心」を持っていたのだろうと評すように、一部に田沼時代や意次を肯定的に評価するものもあったが、全般としては従前の通り悪政の見本とされ、汚職といった面のみならず、その諸政策も否定的に見られた。特に明治に入ると、明治維新の意義を評価する観点からの江戸時代の暗黒性を殊更に強調する風潮の中で、田沼時代の見方は険しいものとなった。
※この「当時の認識・評価」の解説は、「田沼時代」の解説の一部です。
「当時の認識・評価」を含む「田沼時代」の記事については、「田沼時代」の概要を参照ください。
- 当時の認識・評価のページへのリンク