引退及びその死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 06:01 UTC 版)
「市川團蔵 (8代目)」の記事における「引退及びその死」の解説
1966年(昭和41年)4月に歌舞伎座で引退興行を行ない、『菊畑』の鬼一と『助六』の意休役を演ずる。直後に20年来の夢だった四国巡礼に出かけた。足腰に問題もなく矍鑠としているとはいえ高齢での一人旅を家族と弟子達は強く反対したが「これまで生きのびてきたのも大師さんや世話してくださった人たちのおかげ。ただただ霊をなぐさめたい。巡礼途中、仏のもとへいくことになってもお大師さんと二人。なんの悔いることもない」と押し切ってのことだったという。巡礼を終えたあと、小豆島に宿泊し、その帰途、大阪行きの船上で消息を絶つ。船室には、市川のネーム入りの紺の背広上着、中折れ帽、レインコート、懐中時計、文庫本(松本清張の「顔・白い闇」)などのほか、「この金を費用にあててください」のメモのついた財布があり、播磨灘に身を投げ自殺したと推測された。遺体は上がっていない。東京には、30年連れ添った60代の妻・宏子、養女にした妻の姪一家、息子の敏雄一家、孫、ひ孫があり、小豆島滞在中に「探さないでくれ」といった遺書を思わせる手紙などが妻宛に送られていた。巡礼の途中、偶然に出会った者も含めて数社の新聞記者の取材を受けており、「お大師さんと二人だから途中で死ぬようなことがあっても少しもさびしくありません」「客のことばかり気にしなければならない役者か業を思い出したくないので、だれにも会いません」「わずらわしい東京へは帰りたくないのです」「いまは、人形のような舞台人生から離れ、生れてはじめて人間らしい自由を得ました」と心情を語っている。 辞世は「我死なば 香典うけな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ」。墓所は谷中霊園。戒名は「巌生院釈玲空」。 團蔵の死について三島由紀夫は、「団蔵の死は、強烈、壮烈、そしてその死自体が、雷の如き批評であつた。批評といふ行為は、安全で高飛車なもののやうに世間から思はれてゐるが、本当に人の心を搏つのは、ごく稀ながら、このやうな命を賭けた批評である」と、團蔵を追悼し、その死の意味を考察した論評を書いた。 網野菊は追悼の中篇エッセイ「一期一会」を同年の『群像』11月号に掲載(のちに講談社文芸文庫『一期一会』に収録)。同作は読売文学賞を受賞した。 また、戸板康二は、團蔵の死の旅を後をたどった中篇「団蔵入水」を『小説現代』1971年10月号に発表している(講談社から『団蔵入水』として単行本が刊行)。
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