建造~第18駆逐隊時代
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「陽炎 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「建造~第18駆逐隊時代」の解説
1934年(昭和9年)12月に日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告し2年後の失効が決まると、海軍は太平洋広域での活動を想定した大型駆逐艦の整備に着手した。1937年(昭和12年)からの第三次軍備補充計画(③計画)で、新型駆逐艦18隻の建造が承認された(同計画での建造は15隻)。陽炎は同型艦で3番目となる1937年(昭和12年)9月3日に舞鶴海軍工廠で起工し、1938年(昭和13年)4月15日に命名され、同日附で艦艇類別等級表に陽炎型駆逐艦が新設された。 9月27日に進水。1939年(昭和16年)8月10日、艤装員長山本岩多中佐が正式に初代駆逐艦長となった。11月6日に同型艦で最も早く竣工した。 陽炎は朝潮型駆逐艦2隻の第18駆逐隊(霞、霰)に編入し、11月15日に同駆逐隊が第二艦隊・第二水雷戦隊に編入した。12月20日、2番艦不知火が竣工し、第18駆逐隊は4隻体制となった。1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に18駆の僚艦と共に参加した。 太平洋戦争の開戦が迫った1941年(昭和16年)、航続距離が長い陽炎型2隻を揃えた第18駆逐隊は、真珠湾攻撃に備えて第二水雷戦隊の指揮を離れて第一航空艦隊の警戒隊(第一水雷戦隊司令官大森仙太郎少将)に編入された。警戒隊には他に第一水雷戦隊旗艦の軽巡阿武隈、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)、駆逐艦秋雲(第五航空戦隊所属)が加わっていた。1941年(昭和16年)11月26日、機動部隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)の護衛として単冠湾を出発し、真珠湾攻撃に参加した。帰投後、開戦時の艦長だった横井稔中佐が脳溢血で倒れ、12月22日附で有本輝美智中佐に交代した。 1942年(昭和17年)1月5日に呉を出港し、第一航空艦隊に随行してラバウル攻撃に従事した。1月29日、浜風と共に翔鶴を護衛して横須賀に向かい、2月3日に到着した。2月には第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)のポート・ダーウィン攻撃を護衛し、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦にも参加した。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った。 5月1日、第18駆逐隊は第二水雷戦隊の麾下に復帰した。5月下旬、第二水雷戦隊はミッドウェー攻略作戦に参加するためサイパンに進出し、6月のミッドウェー海戦では攻略隊の護衛として参加した。空母4隻を失って上陸作戦は中止となり、第18駆逐隊は6月8日、重巡三隈が沈没した第七戦隊(栗田健男少将)の指揮下に入った。大破した重巡最上を護衛し、同戦隊の重巡熊野、重巡鈴谷と共にをトラック泊地に寄港した。6月23日、第18駆逐隊は熊野と鈴谷を護衛して呉に帰投した。 第18駆逐隊は北方海域を担当する第五艦隊の指揮下に入った。日本軍は、ミッドウェー作戦の陽動作戦として占領に成功したアッツ島とキスカ島を維持する方針を決め、第18駆逐隊が呉に帰投した6月23日に輸送部隊(水上機母艦千代田、あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制した。第18駆逐隊は千代田を護衛して横須賀に寄港し、あるぜんちな丸と合流した。28日、陽炎を除く3隻が一足先に千代田、あるぜんちな丸を護衛して横須賀を出撃した。残る輸送船の出発が遅れたため陽炎は対潜作戦を行い、他の部隊と共に米潜水艦ノーチラスを攻撃して損傷を与えた。 7月5日、キスカ島に到着した不知火と霞、霰が米潜水艦グロウラーに攻撃され、霰が沈没、不知火と霞が大破した。出港が遅れて難を逃れた陽炎は9日、輸送船菊川丸の護衛として横須賀を出発し、19日にキスカ島へ到着した。第18駆逐隊の健在艦が陽炎1隻となったため駆逐隊の編制が変更となり、陽炎は20日に南方に展開する第二水雷戦隊・第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)に編入された。キスカ島に投錨していた陽炎は28日、駆逐艦雷が曳航する霞を護衛し、同島を出発した。8月3日、3隻(陽炎、雷、霞)は幌筵島片岡湾に到着した。陽炎は霞と分かれて横須賀に向かい、8日に到着した。同日附で第二水雷戦隊の指揮下に復帰した。
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