平川水系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 19:16 UTC 版)
川名 よみ 長さ(km) 流域面積(km2) (管理区間) 2.5 5.0 出典 平川 ひらかわ 42 827.2 (国)岩木川への合流地点より5.90km(県)JR奥羽本線橋梁より上流30.96km ○ ○ ├ 新土淵川※ しんつちぶちがわ 3.15 (県)全区間(3.15km) ├ 加藤川 かとうがわ (県)平川への合流地点より3.10km ├ 浅瀬石川 あせいしがわ 44.2 344 (国)平川への合流地点より2.30km(県)朝日橋より上流34.85km ○ ○ ├ 穴堰 ○ ├ 土淵川 つちぶちがわ 14 (県)平川への合流地点より14.01km ○ ├ 腰巻川 こしまきがわ (県)平川への合流地点より4.15km ├ 引座川 ひきざがわ (県)平川への合流地点より8.60km ○ ○ ├ 大和沢川 おおわさわがわ 15.1 58.9 (県)平川への合流地点より7.85km ○ ○ ├ 前川 まえかわ (県)平川への合流地点より2.00km ○ │ ├ 大沢川 おおさわがわ ○ │ ├ 牛沢 ○ │ └ 稲刈沢川 いなかりさわがわ ○ ├ 三ツ目内川 みつめないがわ 15.4 60.3 (県)平川への合流地点より8.46km ○ ○ ├ 六羽川 ろっぱがわ ○ ├ 虹貝川 にじがいがわ 15.5 63.8 (県)平川への合流地点より10.60km ○ ○ ├ 夏沢川 なつさわがわ (県)平川への合流地点より1.50km ├ 鯖野沢川 さばのさわがわ (県)平川への合流地点より1.60km ├ 長峰沢 ながみねざわ ├ 稲荷川 いなりがわ (県)平川への合流地点より1.50km │ └ 駒木沢 ○ ├ 唐牛沢 かろうじざわ ├ 姫ヶ沢 ○ ├ 不動川 ふどうがわ (県)平川への合流地点より4.50km ○ ├ 相沢川 あいざわがわ (県)平川への合流地点より3.00km ○ ├ 碇沢川 いかりさわがわ ○ │ └ 碇沢 ○ ├ 白沢 ○ ├ 大落前川 おおらくまえがわ (県)平川への合流地点より1.00km ○ ├ 小落前川 こらくまえがわ (県)平川への合流地点より2.00km ○ ├ 板沢 ○ ├ 津刈川 つかりがわ (県)平川への合流地点より7.00km ○ ○ ├ 折橋沢 ○ ├ 遠部沢(遠辺沢) とおべさわ (県)平川への合流地点より3.10km ○ │ └ 遠部ダム ○ │ └ 割沢 ○ └ 湯ノ沢 ○ └ 相乗沢 ○ 平川(ひらかわ)は岩木川の最大の支流である。「平川」という名称は近年のもので、かつては地域ごとに「碇ヶ関川」「石川」「平賀川」「堀越川」などと呼ばれていた。 源流部は白神山地東部から十和田山地の西部(このあたりを大鰐山地とする場合もある)にまたがっている。上流部は坂梨峠や矢立峠といった青森県と秋田県を繋ぐ峠一帯にさかのぼり、奥羽本線や国道7号、東北自動車道が平川に沿った河岸段丘を通っている。その後、碇ヶ関、大鰐町中心部を経て、石川城のあった石川 (弘前市)で津軽平野に出て大きな扇状地を形成する。その後は岩木川本流がつくった扇状地の縁をまわりこんで北から北西へ進み、浅瀬石川を合わせたのち岩木川に合流する。 平川の源流をどことするかは文献・時期に拠って異なっている。甚吉森(800m)に発する湯の沢を源流とするもの(『岩木川物語』(1966))、柴森(883m)に発する津刈川を源流とするもの(『角川日本地名大辞典2 青森県』(1985))などがあるが、近年の国土交通省・青森県の文書では炭塚森(571m)東の坂梨峠に発する遠部沢を源流として扱っている。 これらの源流一帯には相乗温泉、久吉温泉、古遠部温泉、津刈温泉、湯の沢温泉(秋元温泉)などが散在し、碇ヶ関温泉郷と呼ばれている。こうした平川の上流の河岸段丘上には数々の縄文時代から平安時代の遺跡が見つかっており、碇ヶ関一帯が古くから人の定住があったことが知られている。碇ヶ関から平川に沿って南へ矢立峠を越えると秋田だが、江戸時代には馬が1頭通れる程度の道幅しか無い上に、途中何度も川を歩いて渡る必要があり、かなりの難路だった。それでも津軽地方と秋田を結ぶ羽州街道の本道であり、参勤交代にも使われた。 平川上流部の支流が一気に集まる大鰐町は水害の常襲地区になっており、上流には、遠部ダム、久吉ダム、早瀬野ダムなどがある。また支流の浅瀬石川の上流には二庄内ダムがあり、岩木川水系の治水の面で重要な役割を担っている。 平川と浅瀬石川の合流地点(藤崎町)には藤崎城が築かれていた。この城は平安時代末期の前九年の役で源氏に討たれた安倍貞任の落胤が落ち延びて築いたのが始まりと伝えられているが、定かではない。伝承ではここを拠点に安東氏と名乗るようになり、やがて津軽の守護・蝦夷管領と成長していったとされている。その後、安東氏の本拠は十三湖の畔の十三湊福島城へ移り、藤崎城は庶流の居城となった。戦国期には南部氏・津軽氏の版図となり、城は廃されて水上交通の重要地となっていった。江戸時代初期にはここが岩木川・平川の渡渉地点になっていて、幕末には渡し場がつくられ、藤崎渡と呼ばれるようになっていた。さらに文久年間(1861-1864)には橋が架けられるようになり、これがいまの国道7号・平川橋となっている。 詳細は平川参照。
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