師匠と先輩が語る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:26 UTC 版)
大山倍達(証言1) 大山倍達はその晩年まで、相手が誰であろうと直言する性格の山崎を折に触れては総本部に呼び寄せて、組織運営の方法などについて懇談していた。その山崎を大山は「多くの弟子の中でも山崎照朝君は、常に極真の精神を忘れず、真面目に生きている。彼は何をするにしても、常に原点に返って正しく見直し、着実に自己の道を歩いている。彼の過去の実績を振り返ってみても、輝かしい足跡を残している。私は、考え方や物の見方、接点の合わせ方など、全ての点における彼の生き方に大いに賛同する」と評している。 大山茂(証言4) 「 オープントーナメント全日本空手道選手権大会やオープントーナメント全世界空手道選手権大会のため、日本に帰るたびに山崎とは良く一緒に食事をしたり、飲みに行った。山崎は一本気で無欲の男だった。それでいて非常に思いやりがあるのだ。そんな山崎に私は一度だけ説教をされたことがある。帰国すると、どうしても昔の友人等のつき合いがあり、毎晩どこかに連れ出されてしまう。そんな私をつかまえて「師範、もっとお母さんと時間を持ってあげないとかわいそうですよ…」と注意してくれたのだ。山崎が家庭を持った後、全世界選手権で妻子を連れて帰国した時、山崎の家へ招待され、一泊したことがある。山崎は細やかに気遣いをしてくれ、私も妻子も大変世話になり、楽しい思い出となった。山崎はその一本気・男気が強いため、誤解を受けたことがあった。しかし山崎は誰にも負けないほど、極真カラテを思っていると私は信じている。ウィリー・ウィリアムス対アントニオ猪木戦で山崎は、「師範、極真カラテの面子を守っていただき、本当に御苦労様でした」と何度も繰り返し、言ってくれた。ウィリー対猪木戦は色々と裏の話があるが、山崎は人の立場をよくわかってくれ、私の口から一度も聞かないうちにすでに理解してくれているようだった。 」 大山泰彦(証言2) 「 山崎とは数えるほどしか稽古をしたことがなく、実戦組手といえるような、真剣な組手をしたことは一度もない。が、二度ほど軽く技を出し合ったことがある。一度目は長いブランクのあと、私が本部道場に戻って稽古を始めた頃であった。稽古終了後、ゼーゼーハーハーやっていたら、山崎が「先輩、ちょっと組手をお願いします」と近寄ってきた。エっ!?という感じで山崎を見ると、冷やかすような柔和な笑顔で私を見ていた。その一、二週間前に藤平昭雄に、よせばいいのに「オイ、軽く組手をやろう」と言い、恥をかいたあとなので、私はいくらか謙虚になっていた。あまり気が進まなかったが、そこは先輩としての意地があるので「ああ、いいよ」という感じで前に出て構えた。前に入ったり、左右に足の動きをつかって山崎をうかがうのだが、大きく構えた山崎はジリジリと間合いをつめてくる。そのプレッシャーに負けて、先に私が前足の左で軽く前蹴りを出すと、それに合わせて左、右と回し蹴りが飛んできた。何とか右に左にと受けたが、角度といいタイミングといい、伸びのある良い回し蹴りだった。いま思い返してみると、山崎はそれなりに気を使い、コントロールして蹴っていたと思う。そのあと、二、三発突いたり蹴ったりして、どちらからともなく組手を止めた。「強くなったなあ。お前の蹴りは見えないよ」、「いやぁ、先輩の動きにはまだついていけませんよ」と言葉を交し合ったが、先輩の私をもち上げてくれた山崎の言葉に苦笑したのを覚えている。 もう一度は、大山倍達総裁の名代で添野道場の審査会に出席した折、その前後にムエタイの話をしていたときだ。「ちょっとやってみますか」と山崎がボクシンググローブを持ってリングに上がり、私もグローブをはめ、軽くパンチや蹴りを出し合った。山崎にロープ際につめられたとき、左・右・左と突いていってはかわされ、泳いでロープの外に出そうになった。ゴング終了間際に私の右の振り打ちが山崎の顔面をとらえ、山崎がロープに寄りかかった。これらを断片的に覚えているが「試合用のグローブだったら、あのパンチで自分は倒れています」と、ここでも山崎は心憎いまでに私をもち上げてくれた。 」 郷田勇三 「 山梨県から稽古に通っていると聞いて、これは大したものだなと思いましたよ。それだけの熱意があったのだから、チャンピオンになって当然でしょう。ハンパな気持ちで稽古をやっていたのでは、チャンピオンには成れませんよ。 」
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