アントニオ猪木戦
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「アクラム・ペールワン」の記事における「アントニオ猪木戦」の解説
モハメド・アリとの試合で世界的に有名になったアントニオ猪木の対戦相手に名乗りを挙げ、1976年12月12日にカラチのナショナルスタジアムで対決が実現した。この試合はシナリオに沿ったブックのある興行ではなく、いわゆるセメントマッチだったとされ、試合の数時間前に初めてペールワン陣営から「ノーブック勧告」を突き付けられたという。それについては当時猪木に同行した藤原喜明やミスター高橋など複数の関係者が明言している。この一方的な「潰し予告」ともいえる要求は、単なる海外でのプロレス興行と思い込んでいた猪木陣営にとっては、全く不測の事態だった。 ルールは1ラウンド3分の5ラウンド制で、先に2本先取したほうが勝利者となるというもの。他は通常通りのルール。 試合は開始直後から異様な展開になり、そして試合の映像からもわかるとおり猪木、アクラムともにパンチやキックなどの打撃技は猪木がキックを一発のみ、ハンマースルーやスープレックスなどの投げ技も一切使わず、お互い組み合ってからのグラウンドレスリングを展開している。 2ラウンド目にアクラムは組み合う最中に上から伸し掛る猪木の腕を、歯型の傷が付くほど強烈に噛み付いた。それに応報するように猪木はアクラムの目に親指を突き入れ、戦意を喪失。加えてスタミナを著しく消耗していたアクラムは、次のラウンドで猪木にチキンウィング・アームロックを完全な形で極められるがギブアップせず、腕を脱臼させられ、3ラウンド1分5秒、ドクターストップで敗北。アクラムはこの試合で片目を失明したともいわれており、同年限りで現役を引退している。 対戦した猪木はアクラムを「とにかく体が柔らかく、組んでからものをいう体幹のパワーがあった」、「日本的にいえば力士をウェイトダウンさせたような感じ」と評している。
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アントニオ猪木戦
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「ザ・モンスターマン」の記事における「アントニオ猪木戦」の解説
アントニオ猪木が現役中に行った異種格闘技戦において、キックボクシング・プロ空手らの打撃系格闘選手の中で、最初に猪木と対戦した相手である。 モハメド・アリとの試合で世界的に有名になったアントニオ猪木に、アリのボディガードで「全米プロ空手世界ヘビー級王者」という触れ込みで挑戦状を叩きつけ、1977年8月2日に日本武道館で試合が実現した。アリ戦とは打って変わり、両者の持ち味が発揮され、格闘技戦史上屈指の名勝負といわれた。 長い手足から繰り出す速い打撃で猪木を苦しめたが、ロープ際でナックルパンチを食らい形成が逆転。猪木に担ぎ上げられ、パワーボムからのギロチンドロップでKO負けとなった。 緊張感みなぎる好勝負を制した猪木は、これにより“世紀の凡戦”と揶揄されたモハメド・アリ戦の雪辱を果たすこととなった。 1978年4月にフィラデルフィアで坂口征二にKO勝ちし、猪木に再戦を要求、同年6月に猪木とのリマッチに臨んだが返り討ちにあった。
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