山道口の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 03:02 UTC 版)
7月6日、庄内軍は山道口(内陸)を一番大隊・二番大隊の約1,000名が、海道口(沿岸)を三番大隊・四番大隊の約1,000名が、二手に分かれて久保田藩領を進撃した。7月11日未明、院内口に布陣した鹿児島藩・山口藩・佐賀藩・小倉藩が、新庄藩の内通による手引きで、庄内藩征討を目標に進撃を開始した。 新庄藩領の久保田藩境にある金山(現・最上郡金山町)付近には、仙台藩を主力とする米沢藩・山形藩・上山藩・天童藩の諸藩連合が布陣していた。金山峠方面からは桂太郎率いる山口藩兵が、東側の有屋峠からは大山綱良率いる鹿児島藩兵が攻めてきて、連合軍は大混乱となり、壊滅的な打撃を受け潰走した。新政府軍は奥羽越列藩同盟軍の陣地を次々に撃破して、7月12日には新庄城下に入った。 詳細は「金山の戦い」を参照 白河口の戦いの応援に向かっていた庄内藩二番大隊は、久保田藩と新政府軍と戦うため、7月11日早朝に楯岡を出発して、夕方舟形に着き宿陣した。一番大隊は天童で二番大隊の使者に会い、同盟軍が大敗したこと、新庄が裏切ったことを聞いた。そこで一番隊も援軍のために北上した。 7月11日、金山に宿営した新政府軍は、庄内軍が舟形に着いたという情報を得て、7月12日午後4時頃、新庄城に入城した。7月13日、新庄藩兵に案内させて、小国川をはさんで庄内軍一番大隊・二番大隊と砲撃戦を行う。しかし、背後から庄内一番隊に奇襲されて形勢が逆転する。庄内軍は新政府軍の本営の四ツ屋を占領し、兵糧を奪う。 詳細は「舟形の戦い」を参照 7月14日には一番大隊と二番大隊が新庄攻略作戦を展開する。二番大隊が迂回して新庄城を占領する。新庄藩主戸沢正実は既に戦線を離脱しており、開城されていた。 詳細は「新庄の戦い」を参照 8月1日に院内、8月5日に湯沢、8月11日に横手、8月13日に角間川(大仙市)、15日に大曲と、新政府軍は庄内藩を中心とする同盟軍に屈し、開戦1ヶ月で久保田藩領のうち雄勝・平鹿の二郡全部と仙北郡の南半が同盟軍に制圧された。 詳細は「銀山越の戦い」、「中村越の戦い」、「院内口の戦い」、「湯沢の戦い」、および「横手の戦い」を参照 8月13日に横手を脱出した新政府軍は、神宮寺に退却して本営を置いた。そして小倉藩・佐賀藩・久保田藩・新庄藩の兵を角間川に置いて、同盟軍の北上を阻止しようとした。13日早朝、仙台軍を先鋒にして同盟軍が進撃を開始するが、仙台軍は敗走。後方にいた庄内藩の二番大隊が代わりに攻撃した。新政府軍は横手川を渡り大曲方面に脱出しようとし大混乱に陥った。そこを二番大隊が追撃して、庄内軍が大勝利を収めた。 詳細は「角間川の戦い」を参照 8月14日に庄内二番大隊は田村新田を出発して、昼前に角間川村についた。一方新政府軍は、澤為量副総督が本営を神宮寺に置き、増援部隊が次々に到着して、神宮寺・太平山を中心として雄物川対岸に巨大な防衛陣地を築いていた。18日より庄内軍は神宮寺攻略を始める。20日と22日に攻撃をするが失敗する。 詳細は「神宮寺の戦い」を参照 8月23日、新政府軍は角館から刈和野にいたる山道口にわたって大反撃を開始する。庄内一番大隊の主力は大曲にあったが、午後4時ころ、玉川を渡河して花館を襲撃した。薩摩藩の正規軍が庄内軍の前線を突破して、大曲に進撃した。庄内藩は決死隊を編成して鹿児島軍の陣地を夜襲し、多数の兵士を捕らえた。 詳細は「花館の戦い」を参照 8月25日、庄内二番大隊の酒井吉之丞と一番大隊参謀長・坂右近助が相談し、角館攻略を決定した。8月26日午後2時頃、庄内二番大隊は南楢岡を出発して、角間川の渡しを越え、翌日の午前2時過ぎに大曲へ入った。入れ違いで庄内一番大隊が出発し、四ツ屋の浅瀬に向かったが、夜が明け新政府軍の反撃を受けたので渡河を中止した。川端より引き返し、次の戦略目標の角館を攻めることに決して、横堀に宿営した。 8月28日、国見で仙台藩兵と落ち合った。仙台藩兵を先鋒にして、庄内藩と松山藩で攻撃を開始した。新政府軍の強固な土塁陣地が多数あり、対岸高台の陣地や大威徳山の砲台から激しく仙台軍・庄内軍を砲撃した。また、生保内方面から攻める予定だった盛岡藩とも挟撃して角館を攻略する予定だったが、盛岡藩は8月26日頃すでに敗退し、9月6日には自国に引き返していた。 新政府軍には平戸藩が応援に駆けつけた。攻撃三日目、冷たい風雨が吹き荒れ、玉川が増水して渡河が不可能になり、盛岡軍も現れなかったので、角館攻略を断念。 詳細は「角館の戦い」を参照
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