小聖遷
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1900年以降、商人らは厳しい関税の取立に反対を表明し、街頭での抗議を繰り返していた。1904年に日露戦争が起こると、商人らの状況はロシアからの輸入量激減により著しく悪化し、同時にテヘランの物価は高騰していた。1905年12月12日、中でも高騰の著しい砂糖について、テヘラン太守アラーオッドウレは強権的手法による価格引き下げを狙い、退蔵を疑い砂糖商人2名を杖刑に処した。 ここに至って不満は爆発した。翌12月13日、群衆は商人との共闘で一致をみた高位ウラマーの2人、アブドッラー・ベフバハーニとモハンマド・タバータバーイーに率いられ、王のモスクに集合した。人気のハティーブ(英語版)・ジャマーロッディーン・ヴァーエズ・エスファハーニーによる激しい反政府演説などが行われた。しかし、ここでは太守の兵と王のモスク導師で保守派ウラマーのハーッジー・ミールザー・アボルガーセムとその支持者によって追い散らされてしまった。ベフバハーニーとタバータバーイーは2日後、テヘラン南郊シャー・アブドルアズィーム廟でのバスト(モスクなどのアジール地に入ることで、文字通りには「避難」のこと)を敢行した。このとき集団はおよそ2000人、商人、仲買人、低位ウラマーらを中心とする群衆で、同時にさらに多くの商人らがバーザールを閉鎖。ただし合流は王兵に阻止されて叶わなかった。 バストはこれ以降、1906年1月13日までの28日間にわたった。これは一見すれば、改革派宗教学者による正義の憤りと、群衆の異議申し立てであった。たしかに処罰された砂糖商人がセイイェド(預言者ムハンマドの後裔)であったことや老齢であったことが宗教的な憤激を誘うなどの面があった。しかし、政府の威喝と賄賂による懐柔をはねのけ、長期にわたる抗議を続けえた背景には、バーザール商人の財力と同時に、宮廷内の反エイノッドウレ派、すなわち職を追われた前大宰相アミーノッソルターンら、そしてエイノッドウレの反動的政策に不満を持つ改革派官僚らである。彼らは反大宰相の一点において一致し、バストした人びとを支援したのであった。 バストした人びとへの揺さぶりに失敗すると、エイノッドウレ政府は交渉姿勢に転じ、バスト解除の条件提示を求めた。これに対しタバータバーイーらは、テヘラン太守の罷免をはじめとする数箇条のリストを作成、交渉のなかで本来の目的である大宰相エイノッドウレと税関長ノウスの罷免、さらに「アダーラト・ハーネ」(公正の家)設立も加えられた。しかしこれは当然、政府の容れるところとはならず、数度の交渉が行われた。その結果、大宰相とノウスの罷免を撤回するかわりに「アダーラト・ハーネ」(公正の家)設置を政府が受け入れることとなり、1906年1月9日、交渉は妥結したのである。 ここで焦点となる「アダーラト・ハーネ」の実態は明らかになっていない。用語としては19世紀後半の司法改革で現れており、この文脈では、フランスの国務院に淵源を持つ制度、すなわち地方太守の恣意的行政を排するための行政法院であって、中央集権政策の一環となる制度ということになる。一方で同じく19世紀後半に地方における都市民、部族民、地方政府の紛争の中で設置された利害調整のための協議機関の影響を受けたものと見ることもできる。これは要求リストに含まれる「公平なシャリーアの実施」を担保し、政府・太守の恣意性を抑制するための機関と考え得るためである。いずれにせよ、バストした人々にとって「アダーラト・ハーネ」は大宰相罷免を撤回するほどの重要性を帯びた機関であった。 交渉妥結の翌1月10日にモザファロッディーン・シャーとアターバク・大宰相エイノッドウレの名によって「シャリーアの遍く公平かつ臣民の安寧を保つアダーラト・ハーネ」設立勅書が下された。13日、ウラマーに率いられた人々はテヘランへ帰還した。熱烈な歓迎を受けたのである。このバストをイラン立憲革命の文脈では、預言者ムハンマドのメッカからメディナへの移動すなわち聖遷に擬して、「小聖遷」と呼ぶ。
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