家庭教師時代
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「フリードリヒ・ヘルダーリン」の記事における「家庭教師時代」の解説
1793年6月に大学を卒業したヘルダーリンは聖職に就くことを拒否し、シュトイドリーンの推薦によってシラーに紹介され、シラーの友人でヴァルタースハウゼン(ドイツ語版)に住むシャルロッテ・フォン・カルプ(ドイツ語版)の息子フリッツの家庭教師となった。ヘルダーリンは教師をしながら『ヒュペーリオン』の執筆を進め、また若い未亡人ヴィルヘルミーネ・キルムスと親しくなった。1794年、フリッツとともにイェーナに滞在、イェーナ大学でフィヒテの講義を聴き、シラー、ゲーテ、フィヒテと知り合った。この年11月、シラーの編集の『ターリア』に『断片ヒュペーリオン』が掲載される。1795年1月にカルプ家との雇用関係を解消し、6月に故郷ニュルティンゲンに戻る。 1796年、フランクフルトの銀行家ヤーコプ・ゴンタルトの長男ヘンリーの家庭教師となる。ヘルダーリンはゴンタルト家の夫人ズゼッテ(ドイツ語版)に強い愛情を抱き、彼女は執筆中の『ヒュペーリオン』における運命の女性ディオティーマのモデルとなった。数年来書き続けた『ヒュペーリオン』はようやく最終稿がまとまり、1798年春に第1巻がコッタ出版より刊行されている。またこの時期フランクフルトでシェリング、ヘーゲルと再会し、論文断片「ドイツ観念論最初の体系計画」を共同で執筆した(1796年末 - 1797年2月頃)。しかしゴンタルトがヘルダーリンと夫人との恋愛に気付くようになり、1798年に家庭教師を辞し、旧友イザーク・フォン・ジンクライル(ドイツ語版)の住むフランクフルト近郊ホンブルクに移った。この頃、戯曲『エンペドクレス』の執筆をはじめる。ズゼッテとはその後も手紙のやり取りを続け、1か月に1度ほどの頻繁な会合を続けた。 1800年5月、シュトゥットガルトの富裕な織物商ゲオルク・クリスティアン・ランダウアーのもとに数か月滞在、安息のうちに「パンと葡萄酒」「シュトゥットガルト」「メノン ディオティーマを悼む」などの詩を執筆する。1801年1月、スイスのハウプトヴィル(ドイツ語版)にて旧家ゴンツェンバッハ家の教師となるが、3か月で解雇されニュルティンゲンに戻る。1801年12月にフランスへ行き、ボルドーの領事で葡萄酒業者のマイヤー家の教師を短期間務めた後、5月に帰国する。このときシュトゥットガルトの友人宅を訪れているが、心身ともに非常にやつれており、ヘルダーリン本人とはほとんど分からないような状態だったという。この頃よりヒポコンデリーの重い発作に見舞われるようになる。6月、ズゼッテ死去の報を受け衝撃を受ける。 10月にニュルティンゲンの実家に戻り、ソポクレス、ピンダロスの翻訳の没頭(1804年に出版)、また彼らを手本として多くの賛歌を執筆する。1804年、ジンクライルの仲介でホンブルク方伯フリードリヒ・ルートヴィヒ5世(ドイツ語版)の宮廷図書館司書の職を得る。ヘルダーリンはルートヴィヒに賛歌「パトモス」を献じた。また五女のアウグステはヘルダーリンの熱心な読者であった。
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