実現の可能性の調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/14 16:13 UTC 版)
「オリエント・エクスプレス '88」の記事における「実現の可能性の調査」の解説
1984年ごろ、沼田はオリエント急行を日本へ走らせることについて真剣に考えるようになった。英国放送協会 (BBC) の友人やイギリスの鉄道ファンに相談すると「理論的には可能」という答えが返ってきた。しかし、日本ではそうではなかった。制作スタッフやプロダクションにも相談したが、荒唐無稽と受け取られてしまったという。形だけの準備委員会は設置された が、社内でも沼田を変人扱いする者すらいた。また、日本の鉄道評論家や鉄道ファンにも話をしてみたものの、「なぜできないか」ということを丁寧に説明される有様であった。 そんな中で、初めて「大変おもしろい」と沼田の相談内容について興味を示した鉄道関係者が、当時日本国有鉄道(国鉄)で運転局長の職にあった山之内秀一郎であった。山之内は、パリの国際鉄道連合 (UIC) の事務局へ1969年から3年間赴任した経験があった 上、帰国後もオリエント急行について調査しており、1982年の特別番組の制作時にも協力していた。山之内は「難しいかもしれませんよ」とは言ったものの、オリエント急行が日本を走れるか検討することを約束し、国鉄内部から専門家を集めて検討を開始した。フジテレビを通じて車両の図面を取り寄せて検討した結果、「主要幹線なら走れそうだ」と見当をつけるまでに至った。 一方、沼田も1985年にVSOE社を訪れ、社長のデビット・ベンソンや技術部長のジョン・スキナーとも相談した。社長のベンソンは「技術的な問題が解決すれば、パブリシティと割り切っても構わない」と肯定的で、技術部長のスキナーも「鉄道技術は融通性がある」「最大の課題はシベリア通過と、対応する台車の製作」と述べた。また、時期の問題については、春先はVSOE社にとって繁忙期、オリエント急行の客車には食堂車以外には冷房装置がないので夏の日本運行は不可能、暖房装置も真冬のシベリア鉄道通過には耐えられないという事情から、「日本に行くのであれば秋」ということになった。 1986年になると、フジテレビ社内の対応にも変化が見られるようになった。当時沼田が所属する編成局の局長が企画に理解を示し、1988年のフジテレビ開局30周年の記念事業として検討するように指示を出したのである。最初の構想から時間がかかったことが、結果的にフジテレビの記念事業の時期と重なり、莫大な費用の捻出も可能となったのである。沼田はこれを受けて、VSOE社からソビエト連邦(ソ連)への列車通過について確認を依頼したが、その結果は「オリエント急行のシベリア鉄道通過について、ソ連政府は拒否することはない」というものであった。同年5月にはVSOE社からベンソンが営業担当者とともに来日し、山之内と具体的な相談をするに至った。しかし、この時期は国鉄の分割民営化が間近になっていた頃で、フジテレビ側でも検討中ということもあり、いったん国鉄側での動きは中断した。 同年10月22日、フジテレビからは沼田とともに編成局長と部長が常務理事に就任していた山之内を訪れ、1988年秋に開局30周年記念事業として行いたいので、具体的な検討を進めるように依頼があった。これを受けて、同年10月30日には国鉄の関係者を集めて、翌1987年1月までに検討結果をまとめた。その結果は「技術的にはオリエント急行は日本を走れそうだ」というものであった。また、この段階で、国鉄が分割民営化されたあとはJR東日本が中心となって計画を進めることと決めていた。山之内は「ヨーロッパに行って実際に車両を見ないと細かいことが分からない」と考えていた が、この時期は分割民営化の準備のためそのような余裕はなく、国鉄側での動きは再度中断することになった。
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