完成から一般公開まで
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「アンドレイ・ルブリョフ (映画)」の記事における「完成から一般公開まで」の解説
本作の第1版は、1966年7月に完成した。このときの題名は『アンドレイの受難』(Страсти по Андрею)となっており、上映時間は205分であった。しかし、中央行政機関ゴスキノの検閲で歴史的解釈が批判されたほか、上映時間を短縮することや暴力的描写、ヌードシーンの削除が要求されて、ただちに一般上映が許可されなかった。批判を受けた具体的な内容は、「襲来 1408年」の章において、民衆はタタール軍に蹂躙、虐殺されて一方的に打ちひしがれる描かれ方をしているが、ロシア人民はもっと勇敢にもっと英雄的にタタールと戦い続けた、という歴史的解釈の異論があったほか、暴力的描写は「最後の審判 1408年 夏」の章で彫刻家らの目をえぐる場面など、ヌードシーンは「祭日 1408年」の章の異教徒らの儀式の場面などが議論の的となった。監督のアンドレイ・タルコフスキーは、そういったゴスキノの要求に段階的に従い、元の205分版を数次にわたってカットと編集を重ねて186分版まで短縮して、題名を『アンドレイ・ルブリョフ』と改題した。 ソビエト連邦内での一般上映がゴスキノによって差し止められていた間、モスクワのドムキノでは映画専門家を対象に限定的に公開しており、高い評価を受けていた。その評判はソビエト連邦に留まらず、多くの国外の映画専門家にも及んでいた。1967年にフランスのカンヌ国際映画祭で、十月革命から50年経ったことを機にソビエト映画史を振り返るイベントが開かれて本作が招待されたが、まだ未完成の作品という理由からソビエト連邦当局が出品を断った。その後もカンヌ国際映画祭の総代表ロベール・ファーブル=ル=ブレは、ソビエト連邦当局と交渉を続けて、1969年の第22回カンヌ国際映画祭に出品されることとなったものの、ソビエト連邦内で一般公開されないことに対する抗議として、パルム・ドールや審査員特別グランプリの選考対象とならないコンペティション外での招待出品作として扱われ、さらに上映されたのは映画祭最終日の午前4時に1回だけであった。 こうした国外での評価にくわえて、映画監督グリゴーリ・コージンツェフ、作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチ、映画雑誌『映画芸術』の編集者らをはじめとするタルコフスキー作品の国内の支持者が、ソビエト連邦での一般公開に向けて尽力していた。タルコフスキーと妻ラリーサ・タルコフスカヤも、一般公開を支援してもらえるよう、影響力を持つ大勢の人物に対して手紙を送り続けており、ラリーサは映画を携えてソビエト連邦閣僚会議議長アレクセイ・コスイギンと面会もした。そして、1971年にゴスキノは186分版の一般公開を承認して、12月24日にソビエト連邦内で一般公開を開始した。公開期間中、フィルムは277本プリントされて、298万人の観客を動員したが、このプリント数は当時の他作品と比較すると非常に少ない。需給関係が釣り合っておらず、タルコフスキーは公開当時の日記に「新聞は『ルブリョフ』が上映中だということについて、何も触れていない。町には、ポスター一枚ない。それなのに映画のチケットは入手不可能な状態だ。映画に感動したさまざまな人が、感謝の電話をかけてくる。」と記している。こうして一般公開を認められていなかった作品がのちに公開を承認された理由のひとつは、創造的な知識人達への恐れが当局にあったためと考えられる。タルコフスキーは、一般公開された186分版を最終版と位置づけて、186分版は「最高かつ大成功したもの」であり、編集やカットをしたことによって「映画の主題の変質もなかった」と述べた。
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