天竜東三河特定地域総合開発計画
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「天竜川」の記事における「天竜東三河特定地域総合開発計画」の解説
天竜川は電源開発だけではなく、治水やかんがい整備といった河川総合開発事業も行われた。契機となったのは1950年(昭和25年)の国土総合開発法である。戦後疲弊した経済を回復させるため第3次吉田内閣が閣議決定し国会で可決成立したもので、全国22地域を対象に河川開発や工業地域開発、かんがい整備事業が行われた。天竜川水系もこの法律の対象地域に指定され、天竜東三河特定地域総合開発計画としてまとめられた。まず開発の対象になったのが三峰川(みぶがわ)で、第一次三峰川総合開発事業が手掛けられ1959年(昭和34年)建設省によって美和ダムが、長野県によって高遠ダムが建設されて三峰川の洪水調節と沿岸河岸段丘上の農地にかんがいを行った。 ところが1961年(昭和36年)6月の「昭和36年6月梅雨前線豪雨」、通称「三六水害」は伊那谷に壊滅的な被害をもたらした。この時も天竜峡狭隘部で水が堰き止められ、飯田盆地は一面湖水のようになっている。各地で土石流や崖崩れ、家屋流失が起こり死者130人、負傷者1,555人、被害総額1,200億円というものであった。この災害では小渋川からの洪水被害が特に甚大であった。 このような水害から流域住民を守るためには根本的に治水計画が必要となり、建設省(現・国土交通省中部地方整備局)は天竜川水系を1970年(昭和45年)に一級水系に指定し小渋川総合開発事業に着手。天竜川水系に多目的ダムを建設し治水・利水を図ろうとした。1969年に小渋ダム(小渋川)を建設し美和ダムと共に天竜川ダム統合管理事務所によって総合的に運用した。天竜川下流部の治水においては、1944年(昭和19年)掛塚側の東派川を締め切り、そして1950年(昭和25年)に天竜川西派川を締め切り天竜川の河道を一本化。更に大入川に新豊根ダムを建設した。長野県も補助多目的ダムを天竜川支流に建設する計画を進め、松川ダム・片桐ダム・横川ダム・箕輪ダムが建設された。 利水に関しては、東海地方の水需要の増加に伴い豊川用水の建設が水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)によって進められた。この中で水源を佐久間ダムに求めることとなり、佐久間湖から大入川頭首工を経て豊川水系に送水され、宇連ダム・大野頭首工(宇連川)を経て豊川用水を通じ知多半島と共に水の便が悪かった渥美半島および豊橋市を中心とした東三河地域へ水を供給している。ここにおいて佐久間ダムは発電のみならず、浜松市等の静岡県遠州地域・愛知県東三河地域の水がめとしても重要な役割を持つようになった。 このように治水・利水に関しても開発は進むが、1982年(昭和57年)の水害で天竜川はまたも大きな被害を受けた。このため建設省は第2次三峰川総合開発事業を計画し、美和ダム上流部に戸草ダムの建設を計画。佐久間ダムに関しても2003年(平成15年)の天竜川ダム再編事業計画で洪水調節機能を付加した多目的ダムとして再開発し、下流の治水を図ろうとしている。釜口水門についても、治水機能を強化するために1988年(昭和63年)に全面改築され、旧水門の3倍の洪水調節能力を有するようになった。
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