天竜川渡河
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)
敗退した義貞は伊豆で軍勢を建て直し、さらに西へと逃れる。途中、天竜川にて橋を架けて渡る。『梅松論』によれば、義貞は三日の内に橋を作るよう命じ、橋が作られるとそれを渡って西へ逃れた。全軍が橋を渡った後、追撃してくる足利軍がこの橋を渡れない様、橋を切り落すべきであると義貞の部下が提案するが、義貞は「橋を切り落すのは確かに軍略の一つだが、敵の追撃に対する焦燥からあわてて橋を切り落して逃げたと思われては末代までの恥である」として、橋を切り落す提案を受け入れなかった。足利勢はこの話を聞き、義貞の態度に感服した。また、世間も義貞の潔さを称賛した。『源威集』にも、ほぼ同様の記述がある。 一方で、『太平記』は、橋を架けてその上を渡ったところ、綱が千切れて橋が壊れ、義貞と部下達が川に流されそうになったが、義貞は船田義昌と手を組んで対岸へ飛び移り、他の部下達も同僚に助けられて無事川を渡りきれた、という話を載せている。梅松論は「義貞の名誉と恥」、太平記は「義貞主従の思いやり」を強調し、叙述しているとされる。また、『梅松論』も『太平記』も、双方、義貞は部下達を先に渡らせ、自分は最後に橋を渡ったと記述している。 義貞が武士としての恥を強く意識した背景には、朝廷から派遣された軍勢の大将という立場が大きく働いていたと見られる。また、太平記、梅松論の双方が記述した「部下に先を行かせ最後に自分が橋を渡る」という行為は、既存の道義や秩序が崩壊しつつあったこの時代において、あるべき武士の姿を描き強調しようとする書き手の意図があったと考えられている。
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