大北方戦争初期・中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 16:34 UTC 版)
「カール12世 (スウェーデン王)」の記事における「大北方戦争初期・中期」の解説
詳細は「大北方戦争」および「ポルタヴァの戦い」を参照 1700年に大北方戦争が開始されると、その若さに乗じようとした近隣諸国を出し抜き、国外に進出して各地を転戦し、北方同盟を結成したザクセン選帝侯・ポーランド・リトアニア共和国(以後「ポーランド」と表記)、デンマーク=ノルウェー、及びロシアの連合を打ち破った。 開戦直後にデンマーク王フレデリク4世がシュレースヴィヒ=ホルシュタインを包囲するとイングランド・オランダの援助でエーレスンド海峡を渡りデンマークの首都コペンハーゲンを急襲してデンマークを北方同盟から離脱させ(トラヴェンタール条約)、次いでナルヴァの戦いでロシアに勝利した後、リヴォニアに侵攻してリガを包囲していたザクセン軍と対峙、ドヴィナ川の戦いで撃破した。この時ポーランドより中立と和議の提案を受けたが、カール12世はザクセン選帝侯を兼任するポーランド王アウグスト2世(カール12世とフリードリヒ4世のいとこ)の退位要求と言う形で1702年にポーランドに逆に侵攻し、急造のポーランド・ザクセン連合軍をクリシュフの戦いで撃破してポーランドを転戦した。 1704年にアウグスト2世を退位させ、代わりにポーランドの大貴族(マグナート)スタニスワフ・レシチニスキのポーランドの王座獲得を実現し、1706年のアルトランシュテット条約と言う形でポーランドとの和議が成立した。スタニスワフは傀儡の君主であり、カール12世の臣下と、共和国の反国王派であったリトアニア連盟のサピェハ家(サピェハ家は、1700年のリトアニア内戦により、リトアニアでの覇権を失っていた)によって1709年までスウェーデンの従属国として統治された。 カール12世はこの時点までの戦闘を優位に進め、戦争初期はスウェーデンが圧倒した。この時期のスウェーデンの侵攻範囲は、ポーランド・リトアニア共和国、ザクセン選帝侯領にまで至った。スウェーデン軍が駐屯したザクセンはヨーロッパの注目を集め、アルトランシュテットではカール12世との交渉に赴く西欧の外交官がひっきりなしに訪問したが、カール12世はロシアの遠征しか考えておらず、ロシアとの和睦も拒絶した。 1706年から1707年までの1年間ザクセンに留まり休養を取った後、残るロシアのピョートル1世と敵対し、右岸ウクライナに侵攻していたヘーチマン国家のヘーチマンであるイヴァン・マゼーパと結び、この間にバルト地方まで進出したロシアとの対決を目論み、ロシア遠征を開始する。しかしロシアでの補給は困難を極め、ロシアによる焦土作戦と冬将軍にスウェーデン軍は疲弊、弱体化した。マゼーパもピョートル1世に襲撃され多くのコサックにも支持されず、壊滅状態でスウェーデン軍に合流した為戦力とはなり得なかった(マゼーパの名代ダヌィーロ・アポーストルはロシアに臣従した)。リヴォニアから援軍を連れたアダム・ルートヴィヒ・レーヴェンハウプトもレスナーヤの戦いで兵站を全てロシア軍に取られたためスウェーデン軍は更に劣勢を強いられた。 1709年7月、ポルタヴァの戦いに敗れたカール12世は、黒海北岸にあるオスマン帝国領に亡命した(カール12世はこの戦闘直前にロシア軍からの狙撃によって足を負傷しており、直接戦闘指揮を執ることが出来なかった)。この間、ロシア軍はフィンランドにも侵攻し、スウェーデン領だったカレリアとリヴォニアを制圧・獲得した。マゼーパはカール12世と共にオスマン帝国領へ逃れたがそこで病没、以後ヘーチマン国家はロシアによって勢力を縮小されることとなった。
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